いじめる側のブレーキについて考える。私がいじめの問題について書く理由は、まず、書かずにはおれない自分自身の痛みがあると思います。正義とは何かとひどく苦しむことがあるからだと思います。
ただただ、いじめる側の横暴を恐れるか、反対に激しく反発するかの繰り返しているだけでは、あまりにもいじめ被害に遭ってきた人々がかわいそうです。
なぜ、いじめがいけないのかを語れることは、自分が悪いからいじめられたのではなかったということを自他共に整然と説明できる事につながります。
いじめ被害に苦しんでいる人々はたくさんいらっしゃいます。訳の分からない胸の疼きに発狂されている方もいらっしゃるでしょう。その毒とも呼べる痛みを薬に変えていくことが可能だと思います。
言ってみれば、私のいじめる側の証明の完成には、さほど価値はありません。いじめに苦しんだ私が、全身に蔓延していた絶望を希望へと転換していく過程とその結果に意味があると信じているのです。
一人の哀れな負の遺産に押し潰されそうな人間が、苦悩の重さに押しつぶされるのではなく、他者の痛みを知り、どうすればその痛みを軽減できるのかと煩悶することこそが、人間の人間らしいあり方のひとつであると思います。
ベートーベンは、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」と叫びました。この苦悩への挑戦を私は必要としています。この挑戦が独りよがりであるだけならば自重することも必要かもしれません。
しかし、私は、この挑戦を繰り返すことにより実際にいじめに苦しんでいる小中高生の力になれていると実感しています。
いじめた側のブレーキを考える。それを考えるのは、当事者の私たち被害者よりも、冷静に俯瞰していじめを考えられる心ある人々にこそ考えてほしい。私たちは、その提案に対して「ここは、おかしいと思います」などと指摘をしっかりしていきます。
例えば、スクールカウンセラーがあります。全国の学校に配備を目指していますがまだスクールカウンセラーがいない学校もあります。スクールカウンセラーは学校に常駐していることが基本です。いじめにより、不登校となった少年少女には全く役に立ちません。
いじめによる不登校により、学校での勉強ができなくなります。塾や通信教育には、少なからずお金がかかります。ですから、経済的に厳しい家庭の少年少女達には、学ぶ機会がほとんど奪われています。
もちろん、経済的に厳しい環境下にあっても、無料で塾に通うなどの制度もあるようですが、すみません、私はまだ調べていません。例えその無料の制度を使えたとしても、なぜ被害者である彼らがそこまでの不遇を受け入れなければならないのか、私は激しい憤りを感じます。
学校制度の改革が必要であるとも考えています。では、理想的な学校制度とは何か、引き続き考えています。今日は考えません。
いじめる側のブレーキを考えるならば、まずはあらゆる対策の裏づけとなる、いじめる側が悪いという証明がしっかりとある方が良いと思います。その証明に基づいた、様々な対策を無限に検証していけばいい。
法律や条例や校則で縛ることも、学校制度の改革も、人権教育も。
こんな問いかけをしてみよう。なぜ、世界中の国々には国境があるのだろうか?
ジョンレノンは、彼の曲イマジンの中で、国境の無い世界を想像してごらん、と今も語りかけている。
人が一生をかけてようやく実現する「訴え」を、数分で出来てしまうというこということは、人生で起こるその長い長い葛藤を一気に省略してしまい、何かを成し遂げた気分に陥ってしまうことが怖い。
勿論、紙の無い時代に自分の身の皮を剥いで刻むように、紙がある時代に、わざわざ身の皮を剥いで文字を刻みつけないように、手紙を書いては消して、宛名に送らなくてもメールで送れるように、簡略化されたのだ、という短絡的な勘違いをしないように気をつけていかないといけないと思っています。
発信する側の安易な思索によるものと、厳しい現実に直面した上で書かれたものとの違いを見分ける眼も大切になるのではと思ったりします。
もうすでに、私のいじめ以外の書き込みの薄っぺらさに自分でも辟易としています。いじめ被害に遭った人への救済は、その本人と会って話をしない限りできないと思います。ここはスピーディーで気軽な意見交換が出来る場所。そんな感じでしょうか?
「おまえ等は元々分断された島にすんでたんだろ?
今更本土に戻ろうとするなよ。おまえ等に明日はない。任せとけって。俺たちがうまくやるから」そんな声が聞こえる。