11ツイッター過去のつぶやき | 晴れわたる青空の下で

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人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

いじめっ子を加害者という記号から人間へ。人間としての彼らを浮き彫りにしてみる。そして、かつての傍観者たちも、善悪含めて、1人の人間として浮き彫りにすることに挑戦してみる。

いじめる側のブレーキとなることとは何か? シンプルのようで、きちんと考えてこれたかなと今更ながら思います。

せめて、私と同じように苦しむ人々を二度と出したくない。第二次世界大戦で地獄絵図を見てきた人々の思いは、絶対に戦争は反対である。卑劣きわまりない殺人や強姦魔、テロリストの被害に遭われた方たちも同じ思いではないだろうか。

  いじめは絶対にいけないこと。それはもう周知の事実であり、反駁の余地はないだろう。だから、人質を取る居丈高な主張を重ねるのではなく、別のアプローチが必要だろう。だからこそ私は、ツイッターを始めたのだ。


(1)何故、私は、いじめの問題を語るのだろうか?
私は、中学時代に残虐ないじめを受けてきました。内容はきりがないから割愛します。テレビで皆さんが見てきた内容とほぼ同じと思ってもらっても構いません。


(2)自殺未遂、不登校、引きこもりも経験しました。そこまでは、良かったのです。自分の問題ですから。しかし大事件が起きました。テレビメディアがセンセーショナルにいじめ自殺の報道を毎日のようにし始めたのです。群発自殺を引き起こす可能性を知りながら報道や止めなかったテレビ新聞への怒り。


(3)メディアに誘発されて亡くなる生徒が絶えないという大惨事が18年ほど前にありました。それがきっかけでした。新聞をみるたびテレビを見るたび、怒りに震えてました。その時の喪失感と罪悪感が今の私に大きな影響を与えたのでしょう。


(4)なぜ誰も声をあげないのか不思議に思い、待ちましたが誰もやろうとしていないと感じていました。
私がやらないとという強迫観念が私を突き動かしたのでしょう。それは私の勘違いであったかもしれないが、声を上げはじめました。


(5)自分がどうしていじめられたのかという答えの出ていない証明に反応的に苦しんでいました。いじめについて書くようになり、絡み合った糸がほどけていきました。そんなある時、いじめに苦しんでいる小中高生といじめ掲示板に出会い、交流を始めました。彼らは、かなり苦しんでいます。


(6)年がら年中、いじめの病理のからまった糸をといたことが、ほんのすこし彼らの役に立っているかなと思っています。いじめは無くせると思います。冷静に皆さんにも納得していただけるようにわかりやすく筋道を立てて話す力が必要だと思っています。



(7)声高に激しく叫ぶだけでは不足だと思いましたので、科学的にいじめはいじめた側の問題であると証明を完成させたい、そう思うのでいじめについて書いています。あらゆる検証を重ねていくことを考えるのにツイッターが有益だと思いました。


以上終わり


小中高のクラスの組分けについて。この組分けは、わりと自由に出来る余地があるのではないか?
(1)あまりにもいじめがひどい場合は、学年間で、クラス移動をする。それを実施する柔軟性は学校にのこされているはずだ。

(2)もちろん、途中でクラスを替えない様々な意図があるだろうけど、いじめや不登校を回避し、義務教育を継続させることを優先すべきではないだろうか?

(3)だから、全国的に、クラス移動の推進をするといい。いじめで不登校なんて異常事態なんだから、そんな危機は早いうちに回避しておく方がいい。団結とはなんだ?全員で一人の生徒をいじめ抜いていくことなのか?

(4)1人の生命を最優先する。それが教育のあり方なんじゃないかな。加害者も一生マリオネットみたいに苦しんでしまうよ。可哀想に。

(5)あとは、別クラスを作ること。今は、いじめ被害に遭ってる子が別教室で勉強している場合がある。そんなケースも良いと思う。

(6)でも、いじめ加害者こそが、別教室で少人数で学び、40人クラスでは負荷がかかりすぎているのは彼らなんだから、彼らをこそ別教室での学ぶ機会が必要なんじゃないか。

(7)彼らは、40人教室でのプレッシャーによりパニックに陥っているんだ。破壊的な気分がだだ漏れで、クラスメートを傷つけてしまうんだから。彼らにこそ少人数教室での丁寧な思いやりが必要なんじゃないかな。


子どもが、プロフ画像のフェンス頂上に登ってる。大人が登れば、奇異の目で見られるが、子どもたちは危なげなくフェンスを無邪気に上り下りしてる。考えさせられている。



病気になることは負けではなく、闘病の過程での苦しさに負けてしまうことが恐い。自暴自棄になったり、絶望したり。そうなりやすいけれども、心は健康であればいい。心の健康な状態とは、常にこの困難を打破していこう、次の課題を乗り越えようとする連続の挑戦の気持ちがあることと教えていただいた。

長い間失ってしまったとしても、今からでもとりもどせるはず。それを強く信じなきゃ。いじめという嵐が去った後は、残酷な台風一過の被害を受けた家によく似ている。汚れた畳、濡れた衣服、割れたガラス、倒れた家具。そんな現実を受け止めてリフォームしなくちゃいけない。


坂本竜馬も、変えがたい現実を変えたんですよね。郷士だっけ?あのいやらしい差別。だから、いじめは必ず無くなる。いじめなんてさせられない社会になるよ。それを見届けるまでは死ねないな。

壮絶ないじめを体験されてきた方の中には、社会的成功をおさめた方がたくさんいらっしゃる。はかり知るない精神闘争を人知れず乗り越えてきた人ほとんどなのでしょう。壮絶な苦難があったからこそここまで来ましたという体験を語られる人がいる。

だからといって、彼らはいじめをされてもよいものとは誰も言わない。私もそうです。残酷すぎるから。耐えきれないのが当然だから、いじめからは逃げて避けてうまくかわすのが正解。いじめっ子は狂犬病にかかった犬とよく似ていて、見境がつかない。

たとえば、「いじめはいじめっ子のエラーなんだから、気にしない気にしない」と言ってみたら、どうなるんだろう。

昔、アフロアメリカンを差別してた人々が平気な顔をして生活していたように。いじめを反省できない人間は、いつまでも自分の一凶という根強いエラーを改善できないまま生きていく可哀想な人々だ。その一点をつかれるたびに反応してしまう。

いつまで経っても自分のエラーを他人のせいにしてしまう堂々巡りの苦悩から解放されない。いじめは犯罪である。犯罪であるが罰せされる機会が無かったために、もう一歩のあらゆる壁が永遠に破れない。

客観的に冷徹に書くのは難しいな……。どうしてもhand wavingになってしまう。

戦争は、自分の利益を得るための最も低劣な手段。掠奪しあう野獣的な発想。忍耐の時期と、掠奪の時期とを繰り返す戦争。哲学者が現れたり、人権闘争の志士が日本も含む世界中に現れたり。より良い生き方について語る人。

医者がそうだろう。薬も、世界中の人々がその効果を検証し、正しい容量を守り恩恵を受けている。ドラッグは悪い薬であり、一時的な興奮状態と引き換えに、自分の人生の選択肢を極めて狭いものに変えてしまう。その危険性を世界中の人々に啓蒙活動をあらゆる団体や個人が行っている。

そう考えていくと、死が伴う「いじめ」の病理は、未だに解決がされない。普遍にまで至っていない。高崎山の猿が芋を洗ってから食べるエピソードのように、広まっていない。

今、日本に蔓延している「いじめ」に対する傍観者の考えは、「かわいそう」「いじめぐらいのことで」「返せない借金」そんな感じかな。いじめてしまう子たちにあるのは、「鉄の壁だと思った壁はゼリー状だった」という戸惑いと、快感がある。

鉄の壁を壊した快感は、ゼリー状の脆弱な固まりを崩していく快感に変質してしまい、彼らは破壊行為のうちに自分の手に着いてしまった真っ赤な血を拭いきれずに、そのうち血の付いたままの手を振りかざして笑っている。

周囲も彼らの血の付いた手を見ることに馴れてしまい、いじめてる子の戸惑いに罰としての沈黙を決め込む。そのうち誰もが注意も関心も示されなくなると、自分の肯定をするために、被害者の欠点を羅列し始める。自分がこんなに戸惑うのはゼリー状の脆弱な彼らのせいだと本気で怒るようになり、その叫びにある本能的な叫びを聞き、聞き手はなるほど、彼らは正しいことを言っているような気がすると、いじめる側を擁護しはじめる。

結果、血まみれの手を振りかざして訴えているいじめっ子はセンセーショナルな印象を周囲に与えて、いじめ被害者以上にいじめる側の観察に心を奪われている。そして、いじめ被害者である彼らへの観察眼を見失ってしまう。

センセーショナルに見えた血まみれのいじめっ子のエラーは時の経過によりすっかりと消えてしまう。それに伴っていじめ被害者の傷さえ、消えてしまった―癒えてしまった――と勘違いしてしまう。

つまり、いじめという短いサイクルが、いじめっ子に主眼を置いている人が多く存在しており、いじめっ子がいじめを辞めた時点ですべてが終了したと思いこんでしまう。

しかし、実際はどうかというと、いじめっ子や傍観者にとっては終了であっても、いじめ被害者にとっては、一生涯「なぜ私はいじめられたのか」と長い時間悩み続けることになる。

いじめっ子によるエラーにより、いじめられたのだという事実を知らされないまま悶々と自己否定を続け、同窓会でいじめっ子による気まぐれなエラーだという事実を知り愕然とするのだ。

人間誰しも、破壊し尽くしてしまう力を胸に秘めている――内在している――。その力を放出して止められなくなって戸惑っているのがいじめっ子の姿だ。



今回は検証してみたことのない視点から眺めてみよう。

いじめ問題を突然に目にするとき、人はかなり重たいストレスを感じているような気がする。ツイッターに限らず、あらゆる場所で投げかけられた表現への反駁が容易ではなく、伝えるためにはあまりにも複雑なものを抱えている。そんな印象が私にはある。

いじめが絶対に悪いことと諸手をあげてさんせいできない人の中には、「俺たちの日常の悪意のないつもりのコミュニケーションまでが否定されてしまうよね」と感じているのだろうか?

そうそう、いじめてしまう子のなかにはこんな典型的なタイプがいる。いじめられている子の方がうんと成熟した考えを持っていて、明るく元気に仲良くと一見悪気の何もないクラスの人気者の子がいじめっ子に騙されていく瞬間。

「そんなにうじうじせんでもええねんで」「もっと積極的にしゃべりいや」そんな感じで話してしまっている子が心配して声をかけてくれるのはとてもありがたい。だけど、見下しすぎていて、助けようというおごりに加えて、いじめっ子と同等のいやらしいいじりをしてくる。

「なんでそんなに暗いん。積極的にならなあかんで」そんなこちら側がハテナマークで一杯になるようなことを言う。

当時いたそんな彼らに、恩返しの意味を込めてこの言葉を贈ろう。「いじめはいじめた側が千パーセント悪い!」嫌がらせでも嫌みでもありません。恩返しです。

違う違う! 私が偶有性の海に飛び込もうと思ったのは、こんなことを書くためじゃない。ついつい調子に乗ってしまう。なかなか、うまく言えないな。