中国人の世界観は、徹頭徹尾「人間」を中心としている。■茂木さん今日の連ツイ■この中国の人の世界観に対し、ヨーロッパの世界観を「普遍的な自然法則の概念」と端的に表現されている。
西洋のように法治主義が徹底されていない。法治主義が徹底されていないとはどういうことだろう。
暴力の反動か。薄々は感じていましたが、やはりそう思っている方もいらっしゃった。わたしの人生だからわたしが築いていくしかない。これでいいのです。このわたしの今の姿そのものに意味があると思うのです。
「離」は難しいですね。実践してみると大変なのがよくわかる。自分から苦痛を伴う問題を離して考えてみる。なかなか大変でした。そのままでいい。そうですね。客観的な視点をつくることは大変ですが、無理なくそれができる日々がくると思います。
ごめんなさい。私はそれでもいじめと戦い続けます。それがたとえ暴力の反動でも、いじめに苦しんでいる人のために役に立つことは、いじめられた私にしかできないこと。これ以外に私が生きていく道は無いとまでは言いません。また、しっかり自分と戦って次の壁を破ります。
さあ、また同じ歌を歌います。今日は昼から背中が痛くて夕方から病院に行きました。小さくなっていた胃に大量の食事を詰め込んだのが原因でした。どか食いをしたのでなく、質素な食生活から急激にボリュームのある食事をかき込んだのがいけなかったようです。
さいわい痛みもひき、待合室で待っていると、若いお母さんに抱かれた二歳くらいの少女がいました。少女は私を見ているようでしたが、私はテレビの方に視線をやっておりました。
しばらくしても赤ちゃんは視線を私から離していないことに気がつきました。私は恥ずかしげに赤ちゃんを見ました。すると赤ちゃんの表情というのが、何か大きなことを乗り越えたかのような表情に見えたのです。
ほっとしたような、何かをやり遂げた後のような顔をしていました。小さいからだで、体に不具合が生じ、色々な検査を忍耐強く乗り切ったそんな表情をした赤ちゃんは「あなたも頑張ったんだね」と言っているように見えました。
若いお母さんは心配そうに祈るように赤ちゃんを抱き、体をさすっていました。私も子どもの頃から病弱でよく両親に抱えられ一時間かけて連れていってもらいました。そんな若いお母さんを見て自分の母をだぶらせました。
私は長い間、母親の育て方が悪かったからいじめられたんだと、10年前までそう信じて疑いませんでした。しかし、そんなはずはないと今日改めて思いました。母親といったって未熟で悩んで失敗だってたくさんするでしょう。誰のお母さんだってそうです。
それを母親のせいだと信じていたのです。親不孝でした。何もわかっていませんでした。いじめる子のよく言っていた「おまえのお母さんなんか変で危ないもんな」と言う言葉にはただの世間からの悪意が凝縮されていただけでした。
それを私はあっさりと信じて鬱々と暮らし、両親に八つ当たりをしてきたのです。いじめは本当に恐い。母親は自分を責めすぎて一時期禿げてしまいました。
なぜいじめる正当な理由があると言えるのでしょう。私の何がいけなかったと言うのでしょう。解決されない悩みを延々と繰り返し自己否定に暮れる日々。
スクールカウンセラーが言ってました。「ひどいいじめを受けると、きつくて学校に行きたくないと言う生徒がいるが、それは、本当で40度の熱が出てふらついているのと同じ状態なんです」この方のおっしゃることには共感が持てました。
私はこの朦朧とした状態を抱えて生きています。病と上手に付き合う、そんな感じです。ですから、いじめをさせてはいけません。子どもだったんだからさと言い訳しても、あなたは一生人から恨まれる人生を歩むのですよ。
恨みを超えたすごい人もいます。その人にはひどく長い強烈な苦痛があった。表には出しませんが今も耐え難い苦痛とその人は格闘しているのですよ。今いじめているならすぐにいじめをやめなさい。そしていじめた子に率直に素直に謝りなさい。
その謝罪の一言が、その人の苦痛の連鎖を止めることになる。あなたにかかっているのですよ。さあ、明日謝ろう。謝っていじめやめよう。あなたはそんなに悪い人じゃない。私は典型的な日本人ですが、少なくとも日本においてはマイノリティだなと感じることが多いです。
強烈な人権侵害を受けた人は日本にもたくさんいらっしゃる。社会悪と戦っている方もたくさんいらっしゃる。私のいじめの問題との戦い方は今の時点では珍しいものだろう。奇異にも見えるでしょう。そう見えることは普通なことです。
だけど私は普遍を目指す。その理想に私が力をよせる将来の姿が見える。しかし、凄いよな。あの知る人ぞ知る大先生がこんな近くにいるなんて。
何回も何回もブログ読んでは今の自分と照らしてみた人が。ネットは凄いな。
ジェントルマンか……。ジェントルマンは日々そのようにあらゆる人々にそうしてらっしゃるからジェントルマンなんだろうな。にじみ出ている。確かに、ジェントルマンを目指すことも大切だな。ツイッターにもジェントルマンがたくさんいらっしゃる。大事だな。
またこの神聖な地にやってきたのは、アメリカに現在の事態の緊急性を思い出し手もらうためでもあります。今は落ち着いて頭を冷やすという悠長なことをするべき時でも、漸進主義という精神安定剤を飲んでいるべき時でもありません。「キング」
この国が現在の事態の緊急性を見過ごしてしまえば、致命的なことになるでしょう。黒人の正当な不満で満ちたこの灼熱の夏は、自由と平等という爽快な秋がやってくるまで終わらないでしょう。「キング」
しかし、正義という名の宮殿へ続く暖かな門口に立っている黒人同胞に言わなくてはならいことがあります。正当な立場を得ようとする過程において、不正な行為を犯してはなりません。自由への渇望を敵意と嫌悪という杯で満たすようなことはしてはなりません。「キング」
常に尊厳と規律という高みから奮闘していかなくてはならないのです。さまざまな工夫を凝らして抵抗していく中で、肉体的暴力に訴えて品位を下げることがあってはなりません。繰り返しますが、精神の力をもって肉体の力に抵抗することで、尊厳ある高みに達していかなくてはならないのです。「キング」
公民権の支持者たちに「いつになったら満足するのだ?」と尋ねる人々がいます。黒人が警察の蛮行という言語に絶する恐怖の犠牲者である限り、私たちは満足することなどできません。「キング」
皆さんの中には大きな試練や苦難を乗り越えてここにやってきた人もいるということに、私は無頓着なわけではありません。狭い独房から出たばかりの人もいます。そして自由を求めた結果、迫害という嵐に打ちのめされ、警察の蛮行という暴風に圧倒された人もいます。「キング」
皆さんは建設的な苦しみをくぐり抜けてきたのです。不当な苦しみはいつかあがなわれると信じて努力を続けていきましょう。状況は変えられるし変わるものだと信じて、ミシシッピー、アラバマ、サウスカロライナ、ジョージア、ルイジアナ、そして北部の都市のスラムやゲットーに戻りましょう。「キング」
友よ、今日皆さんに伝えます、絶望の淵でもがくのはやめましょう。ですから、現在も将来も困難に直面していくことになろうとも、私にはまだ夢があります。アメリカン・ドリームに深く根ざした夢です。「キング」
日本は自由の国だ。しかし、日本の学校はどうだろう。嫌がらせメール1000件、リンチ、強姦、無視、差別的な発言。日本は平和で自由だ、日本の学校を除いて。
優れた最高法規がしっかりと機能している、日本の学校を除いて。地獄から抜け出さえすれば自由なのか。人権侵害の一切が日本の学校に集中している。そこは戦場であり地獄である。戦場から帰り、笑顔が無くなる人がいる。
「書写して学ぶ」黒人社会を包み込む素晴らしい新たな闘志が、すべての白人に対する不信感へとつながるようなことがあってはなりません。――キング
なぜなら今日ここに足を運んでくれていることからも分かるように、白人の同胞の中にも、自分の運命は私たち黒人の運命に直結していると気づいた人が少なくないからです。――キング
何も無かった……そう人々がつぶやき続けることを恐れます。いじめもないし、悪意あるメールなんて送ってないし、いじめなんてしていないし、いじめなんてされてない。そんな何も無かったというつぶやきを繰り返してはいけない。そうすることで中学生が悲惨ないじめにあってしまう。
ある意味、小切手を換金しようと首都までやってきたようなものです。わが合衆国の建国者たちが格調高い言葉で憲法と独立宣言を起草したとき、すべてのアメリカ人が継承するべき約束手形に署名したのです。――キング
この手形はすべての人間、そう、白人のみならず黒人をも含むすべての人間に「生命、自由、および幸福の追求」に対する「不可侵の権利」の保障を約束するものでした。今日有色人種に関する限り、アメリカがこの約束手形を履行していないことは明らかです。――キング
アメリカはこの神聖な義務を履行せず、黒人に対して不渡り小切手を、「残高不足」と刻印されて返されてしまった小切手を、切ったのです。しかし私たちは正義という名の銀行が破たんしていると考えることを拒否します。――キング
この国の、機会という名の大金庫が資本不足だと考えることを拒否するのです。だからこそ、この小切手を、要求に応じて私たちに自由と富と正義という安全を与えてくれる小切手を、換金しにやってきました。――キング
民主主義の約束を現実のものにするべき時なのです。暗く陰うつな差別の淵から立ち上がり、日の当たる人種的正義の道へと進むべき時なのです。――キング
私はあの頃、誰とも共感できなかった。誰の言葉も私以外の誰かのことを語っていることだけはよく理解していた。
あの頃の私と同じように、誰もが私以外の人に向けて話していると感じている人が必ずいる。だからこそ、それを私は繰り返し思い返そうと思う。
私はあの頃、複合的に群れに属していた。しかし、末席に座ることを許されたどのコミュニティも私に対しては否定的だった。当然と言えば当然だろう。
いじめる子によって否定されたありとあらゆる人格を内側から抹殺し続けてきたのだから、オロオロするしか選択肢は無かったと思う。
そんな姿は真の私の姿、言い換えれば理想とする姿ではなかった。ルワンダのかつての少年は、多数の身内を殺された瞬間自分の宗教心を失った。私はあの頃、信じる思想はなくあるのは不確かな一般的な倫理や道徳と呼ばれるものだった。
だから、倫理や道徳を、腫れ上がる手首を見るたび、学級裁判で責められるたび、強く求めていた。
しかし、その一般的な倫理や道徳は、私には当てはめてはもらえないものだった。倫理や道徳の破たんを知り、理論を疑うようになり価値をおかないようにしていた。
悪意あるテレビ放送に傷つき動けなくなっていた。でもキング牧師にはひかれた。テレビの字幕を追うと私への励ましであるかのようだった。
そんな苦しい繰り返しの思い返しを、多くの人にさせないために見えなかった出口付近まで連れて行くこと。少し高速にそこを駆け抜けることでもっと豊かな人生の営みができるようにしむけること。私も含めて。
体系化された心理学や精神医学のように。そんな大海に露のひと粒をとけ込ませるように。本当は、私が黙り、別のことを一所懸命努力していれば、知らず知らずのうちにいじめの問題は好転しより良い社会になる可能性があることを知っている。
かつての被害者である私が語るより、かつてのいじめる子がいじめの無い世界を語る方が有益である可能性があることもよく知っている。
それでも、そんな彼らは私たちに語り尽くすことを促すだろうと思う。私は、彼らが行動を移す前から語り尽くすことに挑戦している。少しでも早く彼らの痛みを和らげるために。