ジハード | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

対談集
人間主義の旗を
以下抜粋


【池田】
私が創立した戸田記念国際平和研究所の所長であるテヘラニアン博士は、イランの出身ですが、イスラムの聖戦について、こう語っておられました。「イスラムでは、『ジハード』という言葉が、時に『聖戦』と解釈されてきましたが、厳密にいえば、武力に訴えるのは『外的な小ジハード』なのです。『内的なジハード』は、自分の貪欲、憎しみなど悪い心を克服し、精神を浄化することです。これこそが、より偉大な『大ジハード』であるとされているのです。しかも、武力にしても、イスラムの教えでは自衛のためにしか許されていないのです」

大文明を生んだ世界宗教は、平和と共生への豊かなポテンシャル(可能性)をもっていると信じます。




マジッド・テヘラニアン
戸田記念国際平和研究所所長。1937年、イラン生まれ。ハワイ大学教授、スパーク・マツナガ平和研究所所長などを務める。専攻は政治経済学、中東研究など。池田SGI会長との対談集『二十一世紀への選択』は、イスラム教と仏教の対話となっている。


宗教と権力


【ウンガー】
一つの難点があります。宗教の運営の本職とする人たち、すなわち聖職者は、生命そのものに欠かせない、この「寛容」について何も知ろうとはしません。自分たちの権威が弱くなることを、すぐに恐れるからです。たとえば、自分たちの言葉をそのまま復唱しない者は呪われるといって脅すわけです。
【池田】
まさに本末転倒です。人間を救うべき自己の使命を忘れ、堕落した姿です。
それぞれの宗教の開祖は、同時代の苦悶する民衆の声に突き動かされて、新しき宗教を打ち立てたはずです。それぞれの知見によって宇宙と生命の真理を解き明かし、民衆の欲求にこたえようとしたからこそ、人々の心に共鳴し、広まっていったに違いありません。それにもかかわらず、社会のなかで確固たる地位や体制が確立されると、ともすれば聖職者は私利私欲や権威を守るために、「目的」である大切な人間を「手段」としてしまう。民衆の声に、まったく耳を傾けなくなってしまうこともあります。
そうなれば、向上心もなくなり、真理に迫る智慧も失われます。その結果、さらに宗教性が低下し、「俗よりも俗」な似非聖職者の横暴が起こるのです。
このような偽宗教家とは断固戦い、打ち破らねばなりません。さもないと、人々を不幸の谷底へと転落させてしまいます。(中略)
権力化した宗教のこわさを、私はよく知っているつもりです。また、権力が宗教を利用するこわさも。
貴国オーストリアの作家ツヴァイクは、『権力とたたかう良心』で、「寛容の宣言」を行った神学者カステリオンを描きました。そのなかに、こうあります。
「権力者というものは、おのれの暴力行為をつねになにか宗教上の理想、世界観上の理想で飾りたてようとするものである」と。
【ウンガー】
そのとおりです。それが歴史の真実です。
【池田】
ツヴァイクは、さらに「暴力はどんな思想でも低劣なものとしないではおかないものだ」と強調しています。宗教が権力による暴力や戦争に加担すること――利用され、さらには進んで協力することは、宗教の内実を破壊します。権力は、魔性ともいうべき自己中心性をもっています。反対に宗教は、人間の苦悩の救済を本質としています。
また、権力は人間を外から支配し、圧迫し、コントロールしやすい卑小な存在にとどめておこうとします。反対に、宗教は内面から生命力を薫発し、多様な個性を開花させつつ、価値ある人生を生き抜くエネルギーを与えようとします。
本来ならば、宗教者は、「権力者の自己中心的な欲望を浄化し」「政治権力を民衆のために奉仕させていく」役割を担っているはずです。
【ウンガー】
「大臣(ミニスター)」の語源も「奉仕する者」でした。政治は、民衆に奉仕するための技術であるべきです。
【池田】
宗教は、間違った権威主義を打破する力となるべきです。ところが、宗教がその時々の政治権力によって保身を図ってしまった。さらには、自らが権威・権力ななってしまった、ここに、非寛容の残虐行為を生んだ理由の一つがあるのではないでしょうか。
宗教が人間にとって本質的なものであるがゆえに、宗教者の偽善は深刻な不信と混乱を招かざるをえません。
権力をかさにきた偽宗教者の横暴を許さないことです。人間の尊敬を脅かす非寛容に対しては、言論という平和的手法で徹底して戦う。そうした「積極的な寛容」であるべきです。民衆が非寛容の権威・権力にだまされない賢さ、強さをもてるように努力していくこともまた「寛容の精神」のはずです。私どもも、そのように行動してきました。
【ウンガー】
そのとおりです。「寛容の心」をもつ人々は、「平和を前進させる勇気」をもつ人々です。人間の尊厳を脅かす狂信と敵愾心に対抗できる人々です。
先ほど提起した“非寛容は原初的で力強く、寛容は後発的で弱いのではないか”という、表面的な印象による問いかけは、まったく誤りです。寛容と宗教は不可分です。
【池田】
「寛容と宗教」の不可分を立証した歴史上の事実を一つ挙げましょう。
アメリカの元国務長官キッシンジャー博士など、私がお会いした西洋の知性が深く関心を寄せていた指導者に、古代インドのアソカ大王がいます。アソカは、仏教の慈悲を基盤として、民衆の幸福のための「ヒューマニズムの政治」を行いました。また、寛容を強調して、他宗教にも「信教の自由」を認めています。さらに征服のための戦争を放棄して、積極的に他国との平和外交を幅広く結んでいきました。これは、政治と宗教の理想的な関係の実例であり、宗教における寛容性が繁栄をもたらした輝かしい歴史であると思います。アソカは、仏教の原点である釈尊の心を、政治に体現しました。とともに、釈尊の心を失い、民衆救済を忘れた聖職者と戦っています。たとえば、アソカは法勅を岩石や石柱に刻んで各地に建て、民衆に語りかけましたが、法勅の一つには「(法を遵守し伝え弘めていくための)教団を分裂させ破壊しようとする僧や尼は、その身分を剥奪し、追放せよ」とあります。
アソカ大王は仏教の例ですが、いずれの宗教においても、創始者の精神、原点に帰ることが大切です。
私の恩師・戸田会長はつねづね、「世界の諸宗教、諸哲学の開祖、創始者たちが一堂に会せば、話はたちまち一致するはずだ」と語っていました。イエス、ムハンマド(モハメット)、釈尊、だれもが平和を目指し、人間の解放を目指しました。悩める人の支えとなり、病める人の助けとなったのです。私どもが信奉する日蓮大聖人もまさにそうでした。
日蓮大聖人の起こした運動は、一側面からいえば、「万人の苦悩の解決を目指した教主釈尊に帰れ!」、また「万人の尊厳を教え、その実現を説いた法華経に帰れ!」という戦いであったともいえるでしょう。
それは、宗教の原点である、人間の苦悩を解決し真実の幸福をもたらそうとの心に立ち返っての闘争だったのです。