ふと、エヴァンゲリオンをつくった庵野秀樹がなんかで言っていた言葉を思い出しました。
”ウルトラマンは、ヒーローなのに怪獣と戦うときに地球上の街のビルや民家をめっちゃ壊しながら戦っている”
確かに!
って思ったんです。
でもこうも言っていたんです。
そのシーンを見ているとエロスを感じる…
で、僕、思いました。
それもなんとなく分かる!
って。
ここでいうエロスとは、私たちが普段想像する狭い意味のエロティズムではなくて、フロイトの提唱したエロス、つまり生への欲動に近いものなのかなと思いました。
一方…
めっちゃ時間をかけてドミノをつくったら、どのタイミングで破壊しようか…で悩みますよね。
いやいやせっかく作ったんだから置いとこうよ!と思う方もいるかもしれません。
でも、壊したらどうなるんだろう?
というそれを見てみたい欲求は、必ず湧いてきますよね。
こういう破壊衝動
あるいは、死への衝動
こういうのをフロイトはタナトスと定義しました。
そう、フロイトは人間の本性には逃れられない2つの本能があってエロス(生きる、愛)への欲動とタナトス(破壊、死)への衝動が共存していると提唱しました。
エロスはなんとなく分かりますよね。
でも考えてみたらそうです。
ドラマや小説、映画を見ても必ず誰かが殺されたり、何かが破壊されたり…
もちろん、命や物やだけではなく、誰かの心を傷つけたり、苦しめたり…
やられたらやり返す!倍返しだ!
に熱狂するわけです。
もしかしたら、実際には理性(本能を思考でコントロールしている)のために抑えられている破壊欲求を映画やTVなどの疑似体験によって、解消しているのかもしれませんね。
だとするならば、それは健全な解消法です。
でもそうやって本性に抗えずに、破壊と支配の歴史は繰り返されてきましたし、今も続いています。
ただ、エロスとタナトスは表裏一体で単純にエロスが良くてタナトスが悪いといった話ではないんです。
こんなお話があるそうです。
この世のはじめには、誰も死ななかった。カメにカメ奥さん、男と女、石ころたち、この世にあるものはみんな、いつまでも生きていた。そういう風に決めたのは、この世の造り主であった。
ある日、カメとカメ奥さんは、小さいカメがたくさん欲しいと考えて、造り主のところにお願いに行った。
造り主は言った。
「そうか、子供が欲しいのか。だが、よく考えなさい。子供を持つと、いつまでも生きていることはできない。いつかは死ななければならない。さもないと、カメが増えすぎてしまうからだ」
カメとカメおくさんは答えた。
「まず、子供を授けてください。そのあとでなら、死んでもかまいません」
「では、そのようにしよう」
と造り主は言った。それから間もなく、カメとカメおくさんに、たくさんの子ガメが授かった。
人間の夫婦も、同じようにして造り主のところへ行き、子供を授かった。
石は、子ガメや人間の子供たちがよちよち歩き回ったり、楽しそうにしているのを見た。けれども石は、子供を欲しいとは思わなかった。だから、造り主のところに行かなかった。
このようなわけで、いまでは、男も女も、カメもカメおくさんも、死ぬ時が来る。造り主が、そう決めたから。けれども、石は、子供を持たない。だから、死ぬことはない。いつまでも、生きている。
『世界のはじまり』岩波書店
そしてこんなお話しがあります。
トラ猫は百万年もの間、死んではまた生きることを繰り返し、決して本当の意味では死ななかった。
ある時、トラ猫は野良猫として生まれる。
メス猫たちにモテモテの立派な風貌で、トラ猫自身も自分のことが大好きだった。
しかし、トラ猫は自分に見向きもしない白いメス猫に恋をして、いつも一緒に過ごすようになる。
そして、子猫もたくさん生まれる。
トラ猫は、自分のことよりも、白い猫とたくさんの子猫たちをもっと大好きになるが、子猫たちは大きくなってどこかへ行ってしまい、ついには白い猫も死んでしまう。
トラ猫は、朝になっても夜になっても泣き続け、そしてある日泣きやむと、そのまま死ぬ。
猫は もう、けっして 生きかえりませんでした。
『一〇〇万回生きたねこ』講談社
愛を知り、愛の結晶として、子供たちを作る。それは命の代償なんですね。
愛は性であり、生であり、そしてそれは死とは切り離せないもの。
つまりは、エロスとタナトスは一対なんです。
人間て、結局こういうものなんだなぁ…
としみじみ思いました。