否定 | ひとりごちたるありふれた日々

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とにかく憎くて、

その人だと認識できる形でとどめることが嫌だったのかなと、

それをしてもなお視界にあることが嫌だったのかなと、

思いつつ眺めている事件。


いろいろな"なぜ?"が浮かぶけど、

それは多分、当事者じゃないから。

その渦中にいないから。


ほかに考えようがなかったから、

そうしたんだろうと思う。


渦の真ん中でどんどん尖って行った

ただ一つの思い。

たったひとつの選択肢。

果たした今、

心に去来するものはなんだろう。


ものすごく語弊のある言い方だけど、

幕が降りたという感覚なのかもしれない。


自分を否定されると、

人は自らを追い詰めていく。


自らを責めることに耐えられなくなるか、

相手を責め続けることの果てしなさに疲れ果てるか。

あるいは、乗り越えなければ、と自分に言い聞かせ、

力量、器以上の重荷を課して、自分を押しつぶして行くか。


うちに向かえば自分だけを壊すことになるだろうし、

外に向かえば他者を傷つけてしまう。

もちろん、他者と同じだけ、それ以上に自分も傷つく。

うちに向かっていたものをいじられて、

思いがけなく他者に向ける刃もある。

多くの、大抵の場合は、精神的に。


そこにいることの苦しさは当人にしかわからない。


同情はしていない。


相性なんだろうなと思っている。


一度できてしまった人との関係、バランスは、変わらない。

一度噛み合わせてしまった歯車の噛み合わせ方は、

そうそう変えられるものじゃないと思う。

これは個人的な諦観でもある。

自分への諦観と言ってもいいかもしれない。


相手とともに作り上げたものではあるけれど、

そうしたのは半分は自分だからね。

そのことで誰をも責めないとすれば、離れるしかない。


離れずに修正することは、

とても勇気と根気が要る。

時に自らを否定もしなければならない。

しなくていい自制も必要になる。


しなくていいというのは、他の相手だったら、ということ。


傷つかなくてもいいことで、

擦り傷や切り傷を刻んでいくことにもなる。


それもひとつの人生だとは思うけど、

困難な道だと思う。


その困難に立ち向かうことを人に望むことも、

自分に課すこともしなければいけないものとは

私は思っていない。


渦中から離れるという選択肢は、

そこから離れたから、

離れられたから、

持ち得る選択肢だろうと思う。


事件は、離れたかったのか、

離れられない何らかの執着があったのかは

今のところよくわからない。


息子の存在を死という形で否定された

親御さんはどんなに辛いだろうとも思っている。

矛先がはっきりしているだけに、

向けざるを得ない矛を手にしてしまったことの

苦しさも思う。


お互いを幸せにできる相性じゃなかった。

多分、そういうことだと思う。


幾人かの人が

とてつもなく大きな負を背負って

生きていかなければならなくなってしまった。



(うーーーーん・・・言葉足らず。)