解釈と評価の構造・必要性 』の記事についての、『2ちゃんねるの書き込みに対抗言論してみたw 』の記事におけるコメント8で、私が、「NOAさんはどう思っているんだろう…。」と書いたのに応えてくれたのか、NOAさんが、6Pについての考えをメールしてくれました!

許可をいただいて、下記の“”内に転載します。


“NOAです。いや、○○(※中村注:NOAさんの本名)です。

例の6Pが「6P」なんて名前になって盛り上がりをみせるとは思ってもいませんでした(笑)。
もっと、こう、「いや絶対に評価は必要なの!だって試験委員様がそう言ってるんだもん!」みたいな批判がくるのかも、と思っていました。

結論的には中村さんと同じです。
6Pはあくまでも受験界の「あれをせよ、これをせよ」という根拠のない思い込みを、一度ゼロベースに戻って考え直してみるための素材であって、6P自体にはもっぱら対抗的な意味合いしかないと思っています。
まあ、最初の段階で条文から事実に至る論理の流れを事前に把握しておくための雛形として意識する分にはいいと思うのですが、それ以上の効果は特にないかなと思います。

6Pが役に立つのは、やっぱり受験界の通俗的な思い込みから自由になるためでしょう。
具体的にいうと、

①法学なのだから常に規範は立てること(←条文は規範じゃないのかよ)とか、
②理由が書かれていない文章は文章ではないから、規範に理由は必須(←規範は理由じゃないのかよ)とか、
③あてはめでは必ず評価をしなければならない(←してない判例ばっかりですけど・・)とか、

こういった「元の条文の文言」や「そこから導かれた規範」や「事実の条文へのあてはめ」が、それだけでは言葉足らずなものだから泣く泣く付け加えなければならなくなるに過ぎない「置き石」(①~③はすべて置き石です)を、「いかなるケースでも常に置くべし」というのはどう考えてもおかしいでしょう、というのが私の言いたかったことの全てです。

もう少し踏み込んでいうと、規範を立てたり、理由づけを付け加えたり、事実を評価したりしなければならないのは、元の条文や規範や事実のあてはめの表現が、それ自身では未だ万人を納得させるには及ばない程度の説得力しか持っていないからです。その程度に「文章の出来が悪い」からです。それくらいに出来の悪い文章だから、規範や理由や評価などの「中継ぎ」が、泣く泣く必要になるのです。

逆にいえば、文章の運びが上手で、一つ一つの単語・センテンスを本当の意味で無駄なく論理的に(≒説得的に)繋いでいく能力がある人であれば、(その人の能力が高くなれば高くなるほど)こういった要らぬ「中継ぎ」の出番は少なくなるはずです。

私が言いたかったのはそれだけです。

もう少し付け加えると、なにやら受験界や試験委員界では、多くの人たちが「規範」や「理由」や「評価」といった中継ぎを用意すればするほど論理的で説得的な文章になると思い込んでいるふしがあるようです(試験委員ですらその辺をちゃんと考えていない人ばかりだと思います)。もちろん、中継ぎを置けば論理性・説得性が増すというのは一面の(時と場合を限った)事実ではあるのですが、同時に、こういう物言いが本当の意味での論理的・説得的な文章というものをどこかで確実に誤解しているのも間違いありません。

例の「ソクラテスは死ぬ~」の三段論法(※中村注:大前提「人は死ぬ」+小前提「ソクラテスは人である」=結論「よってソクラテスは死ぬ」みたいな。)がその誤解の典型例です。
なんでもかんでも三段論法にすればいいってもんではありません。逆に、不要な場合にも三段論法という置き石を置きたがるというのは、その人が本当の意味での三段論法(普通に「理由」と言えばいいと思いますが)の意義を理解していない証拠だと思います。

それにしても、こんなに多くの受験生が「三段論法、三段論法・・」と言い始めたのは、あきらかに適性試験の悪影響があると思います。
普段からちっとも論理的じゃない人、日本語能力に欠ける人ほど、こういうことを過大に重視する傾向があるというのは置いておくとしても、旧司時代はほとんどなかったこのような拘りが流行っているというのは、受験生の側が一体何を頼みにすればいいのかを見失ってしまっているということなんじゃないかという気がします。いずれにしても、時代状況の変化で重要になったり消えていったりする単なる流行が、普遍性(つまりは重要性)を持っていないということは間違いないと思います。

ようするに、大事なことはひとつだけだと思います。
規範がどうしたとか、理由がどうしたとか、評価がどうしたとか、そういう筋違いのことに拘らずに、ただ淡々と文章を切れ目なく説得的に運んでいくこと。大事なことはこれだけです。文章を普通の日本語として誤魔化しなく丁寧に運んでいけば、その結果、規範という「中継ぎ」が必要なら規範がでてこざるを得ないし、理由が必要なら理由を書かざるを得なくなります。そういう素直な順番で考えていかないと、事態がおかしな方向に進んでいってしまうと思います。

素直な順番の逆というのは、たとえば具体的な問題文を目にする前から、「俺は規範を立てるんだ。そう決めたんだ。法律ってのはそういうものなんだ」とか、「試験委員様が評価が大事だって言ってたんだ。言ってたんだから、問題文なんか関係ないんだ。問題文なんてゴミみたいなものに何が書いてあろうと、自分のあてはめ表現が現場でどうなろうと、とにかく評価はするって決めたんだ。決めたんだから決めたんだ」みたいな、自分のすべきことが問題文を見る前から決まってしまっている思考態度のことです。

でも、試験であれなんであれ、事態はすべて状況との関数です。
状況が変われば、するべきことも(間違いなく普通は)変わります。どんなことをするべきかは、状況を見るまでは分からない、が正解なはずです。
状況を見る前にするべきことが確定してるなんていうのは、状況判断を「誰か」に預けて思考回路を全部停止しなければあり得ません。

司法試験でいえば、規範を立てたり理由を書いたり評価をしたりしなければならないかどうかは、すべて「目の前のその問題文がどうなっているのか」「その問題を受けて、自分がそこでなにをどのように表現するのか」ということとの関係で、あくまでもその場その場で、相対的に決まってくるはずです。

そうしないで、「何をすべきか」を先に決めてしまうのが昨今の流行の根源だと思いますが、それは多分そのほうが受験生たちにとって「ものすごく楽だから」なんだと思います。
昔、論証パターンがあれだけ流行ったのも、事前の準備教材としての優秀性ゆえだと思います。
受験生の対策が、黙っているとすぐに「知識」に行ってしまうのも同じ理由です。
すべて、予め、事前に、確定した事柄を、何も考えずに実行すればいい、という受験生の願望が形となって表れているのだと思います。”