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自考能力開発講座

自分で考え、自分で行動するには、何が重要か?”考える”ということはどうすれば出来るのか?過去にとらわれ、今に悩み、未来を憂う人に贈る『自考能力開発講座』



指導する側は基本的にサービス精神が旺盛である。未熟な者に対して、自分が知り得たものを全て伝授する気概で望む。情熱や想い、愛さえ感じる光景ではある。ここで何故、指導するのかという根本テーマに立ち戻ってみたい。それは未熟な者が”成長”するために役立つと思うからである。何も文句はない。まさに先人は若輩の為に申し送りしないといけない。伝承の大切さがここにある。

では、”指導”とは何を指しているのか?知識の伝授か?経験のケーススタディか?はたまた苦労話のリスク管理か?・・・いいと思う。しかし、伝承には踏み込む境目、分岐点があるのである。指導者のコピーを作っても、時の変革に対応できないことがままある。重要な姿勢は、絶対に答えを与えてはいけないということである。指導を受ける者が成長するためには、自考する習慣をつけさせるしかないのである。未熟者が成長する・・・それが、指導者の最大の願いであるならば。

問題意識を与える・・・人が何かを考えるにはテーマがいる。指導者は、生徒のおぼろげな願いを見抜かなければならない。成長していきたいベクトルがあるはずである。そこに行くために必要な”半歩先”のテーマを与えるのである。何故、半歩先なのか?1歩先はすでに第1次回答だからである。そこまで与えてしまうと生徒は”そうかぁ・・・”と思いながらも、やってみる。上手くいかないことが多い。そこに出来ない言い訳が生まれる素地ができる。初心の頃からこれを繰り返すと3年も経てば立派な”言い訳の達人”が完成する。

考え方を与える・・・ネットを開けば、ある程度の知識を得られる時代である。その1次的な情報が回答と思っていると悲惨な目に合う。指導者は、知識の展開の仕方を伝授しなければならない。でないと、畑からとってきた泥まみれの大根をそのまま受け取ることになる。自考能力開発では常に思考の方向性を3つ抽出することを主眼としている。このテーマに対して、A・B・Cという切り口で考えてもらう。その切り口で、具体的・実践的・行動的な案を引き出すのである。指導者はこの切り口で留めないといけない。これが”思考の浮島””半歩先”なのである。あくまでも、何をやるかは生徒に考えさせなければならない。何故なら、”人は自分で考えたことしかやらない”からだ。

過去の事例を与える・・・歴史に答えは出ているという慧眼は、人類の共有の財産である。誰もが引用し、参考にし、翻訳していいものである。指導者は、自分自身の経験則の話もいいが出来るだけ失敗例が良い。何故なら、生徒はホッとするからである。成功例だと、まず指導者の自慢話扱いされかねない。また生徒は成功しなければいけないと自縛状態に囚われる。成功話は、生徒に聞かれた時だけでいい。過去の事例は、江戸や明治の事例をお勧めしたい。江戸の事例は、日本人が一番触れている。明治の事例は写真や蓋然性が高いものが残っている。指導者はそういう学びも魅力創りに入れておいてほしい。

指導的立場にある人は、その影響下にある生徒や部下後輩を活かす責任がある。そう、活かすのである。決して育てようとしてはいけない。人は育つのである。指導者の役割は育っていく方向性の示唆である。生徒がどのような形に育つかは誰もわからない。指導者の役割は、こういう分野で、こんなカテゴリーで、こうした社会で・・・という方向性までである。指導段階で答えばかりを与え続けていると生徒は将来必ず伸び代を失ってしまう。

プロ野球選手を多数輩出してきた有名高校の野球部監督の話。その指導姿勢に感銘を受けた。「うちの高校には将来プロ野球選手を目指して入学してきますが、高校時代に伸ばしきらない指導をします。伸び代を残して、プロ・社会人・大学と進ませるようにしています。まだまだ彼らには未来があるからです。」と。深謀遠慮なる指導姿勢に頭が下がる思いだ。

答与えず、道を教え、未来の姿をジッと待つ!」である。











若い頃、営業現場で先輩が「営業はなぁ、GNPだぞ!」と教えてくれた。「GNP?国民総生産??・・・どういうことですか?」「義理と人情、プレゼントじゃ!」と歌舞伎役者の如き大見得を切ってご伝授頂いた。その時は「なるほど」と思いながら、心で”大喜利か!”と思ったものである。しかし、この営業姿勢は世界中の共通項でもある。交渉の根底には誠意誠実が無ければならない。その上で、相手を魅了し、籠絡し、惚れさせ、そして信頼を勝ち得ていくのである。今でも当然通ずる。誠実さも形にしないと届かない。義理と人情プレゼントは不滅である。

さて、平成の御世になり、新しい価値観も生まれてきている。「義理と人情プレゼント」が昭和GNPとしたら、平成GNPも少し考えてみよう。

lobal・・・グローバル。今や、エリア戦略は市や県などの範疇では商売にならなくなってきている。以前ならば、広範囲
をマーケットエリアにすると、伝達のインフラやロジスティクスの世界で、環境が無くそれ相応のコストがかかり、一部の組織にしか手が出なかった。しかし、今は違う。日本の小さな酒蔵が、ヨーロッパのWINEコンテストで金賞を受賞したりする時代である。その品質の高さは欧米諸国の人々を唸らせている。リンゴ農家の輸出品は、日本市場の10倍の値段で取引されている。情報伝達の整備、海外輸送のスキーム確立などが、Cool Japanの諸々を、迅速正確に伝えてくれている。車や精密機械だけではないことを諸外国はすでに知っているのである。

et・・・ネット。特にインターネットネットの歴史は1980年代に教育機関の情報の処理効率や共有化によって開発され、80年代後半にはアメリカで商用化が始まっている。今やこのインフラ整備はビジネスにはもちろん、個々の生活まで左右しかねない。IT革命と叫ばれて久しいが、間違いなく世界中を巻き込んだパラダイムシフトが進行中である。便利になった分、淘汰されていく世界もある。情報入手の手段、コミュニケーション手段そしてビジネス方法が激変している。ネットをベースにビジネススキームを構築しなければ間違いなく繁栄の道はない。

ersonal・・・パーソナル。広告の方法を考えれば、如何に今の時代パーソナルに特化した広告戦術なのかがわかる。ゴルフ好きは、ゴルフ情報をよくネットで見る。そのサイトの横にはゴルフ用品の広告サイト。クリックすれば、ユーザーの嗜好がデータ化され、事あるたびにメールでゴルフ関連のご案内・・・。こんな笑い話を聞いた。「Googleはあなたよりあなたのことを知っている」と。・・・笑い事ではないが、それだけ世の中は個に特化したマーケティング手法が確立されているのである。以前のように何千万、何百枚とチラシ広告を配る時代ではなくなっている。仕留める確率は断然、パーソナル・マーケティングが上である。

平成のビジネスGNP・・・全て繋がっている。個人が世界を舞台に打って出ることも可能なのである。もちろん、いつの時代も、5W1H、こういう理由で、いつ、どこに、誰に、何を、どこへ、どのように・・・の組み合わせの才はいる。しかし、可能なのである。弱者が明日強者になっている時代である。面白い世の中になったと思う。

GNP外さず企め、Cool Japan!である。




組織の成長を停滞減退させないために新規の人材採用は必要である。いわゆる“血の入れ替え”である。いつの時代も体制は澱む・・・のである。どこの組織運営者であれ、それは理解している。そう、頭では・・・。

新しい人材は、いつの世も入りたては周囲から様子見されている。どんな人間か?馴染めるのか?一緒にやっていけるのか?・・・云々。入りたての人もまた、同じことを考えている。ここでもう少し組織運営を俯瞰して考えてみよう。何故、新しい人材を採用するのか?という大上段の問題提起である。人手不足・・そうだろう。特に昨今はどこも人手は足りない。しかし、深謀遠慮の観点からみるともう少し、人材採用に意味を持たせても良いと思う。それは、組織は澱むからである。澱んだ湖面には石を投げて波紋を起こし、刺激を与えなければ柔軟な思考の組織とはならない。

他者・・・余所者(よそもの)のことである。他者は、違う世界を知っている人間である。環境、しきたり、仕組、制度など他所で違う経験をしてきた人間である。当然、入りたてはやはり様子見だが、だんだん、”この点は以前の方が良いのではなかろうか・・・”と環境に違和感が生じ始める。しかし、他所の環境(他業界・他職種・他国など)から来た人間には、これが求められている。他者は、忌憚なく意見を聞いてくれる人(理想を言えば最高責任者だが・・・)に素朴な疑問としてぶつけてみてほしい。意外と、元からいる人達もそう感じているがズルズルと変えずにここまで来ていることが多い。

馬鹿者・・・ここでいう馬鹿者とは、これまでの組織にはない価値観を有する人材のことである。イノベーションは価値観の改善・否定・破壊の産物である。組織を再生させたり、生まれ変わらせたりするには必ず彼らの存在抜きにしては語れない。この馬鹿者が経営者や責任者になると、大きなうねりを生じ、波紋が起きる。いわゆるダイナミズムである。歴史を動かすとなるとそれはパラダイムシフトまで起こせるエネルギーを持ち合わせている。ただ、人材採用で一番に不適と烙印を押されるのもこのタイプである。人を見抜く凄さ”慧眼”というものがあるのならば、何とか生かしたい人材である。そこには、この馬鹿者の理解者が必要である。形になるまで、身になるまで、先行き見えるまで・・・支えてくれる”慧眼の庇護者”の存在が大きい。

若者・・・いつの時代も若者が時代に刺激を与え、壊し、組み立てなおすのである。その過程で既存の勢力と丁々発止のバトルが繰り返される。何度叩きのめされても立ち上がってくる若者が最後には勝利を手に入れる。そこまでの情熱と執念と志があればである。既存勢力は、何度でも向かってくる若者との戦いに疲弊していくのである。だんだん恐怖を覚える・・・そして力尽きる。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉は、既存勢力の引き際を示唆したものである。若者には、年配者をそこまで追い込む力をつけて欲しい。それが組織の、ひいてはこの国のためである。

人は馴染んだ環境を守りたい生き物である。しかし、間違いなく組織という存在のパラダイムシフトが起こっている時代に我々は生きている。終身雇用というのは昔話になっている。一部では、再雇用、死ぬまで雇用と謳ってる組織もあるがほんの一握りである。日本の文化やモラルに惚れた外国人現場復帰を目指す女性古豪復活を期するシニア層・・・戦力になる人材はたくさん存在する。「遺賢は野にあり!」である。

人活かし、組織の澱み取り除き、括目いたせ人の才!」である。



二の足を踏む」という言葉がある。踏み出したはいいが、二歩目が出ない・・・ためらいや戸惑いを表現する。しかし、まだいい方であるとこの言葉を見るたび思うのである。・・・一歩目が出てるじゃないか・・・と。閉塞的な社会になると、誰もが保守的になる。物を買わない、投資をしない、新しいことをやらない・・・となる。最初の1歩さえ出なくなるのである。

文明は成功と失敗を繰り返し未来へ歩みを進めてきた。成功も失敗も行動した結果である。最初の一歩をためらうようでは文明は前に進めない。ひいては、人は成長しないのである。こういう式がある。<計画―実践=結果>・・・計画を立て、やってみて、そしてその結果が出る。その結果はプラスのことが多い。つまり、計画の方が大きいのである。しかし、これでいいのである。その結果を”課題”ととらえるメンタリティさえあれば良い。課題は仕事である。仕事ができたのである。仕事が無いと・・・つらい。実践しないと”つらい”ことになるのである。

怯懦・・・きょうだ、怯えのことである。怯えはどこから来るか?まだ見ぬ未来の姿が悲惨な目に合っていると予測するからである。情報過多の時代である。その情報はネガティブなものが多い。その情報を我が身に置き換え失敗のバーチャル体験をするのである。海の向こうに何があるか確かめに行こうとする。情報の無き時代はとにかく行ってみた。それこそ法を犯してでも行ってみたのである。今はどうであろう?法律違反だよ、海は危険だよ、船を買うお金がないよ…云々とこれ見よがしに出来ない理由が怒涛の如く出てくる。法に抵触しない方法はないのか?危険を回避する方法はないのか?船が買えないのなら他の方法で船に乗れる方法はないのか?・・・情報はたくさんあるのだ。そう、ポジティブな情報も沢山と。

怠惰・・・昔未来の人間を風刺した漫画を思い出す。文明が発達し過ぎて、人は何もしなくて良い”生活”スタイルになっているというものだ。朝はロボットが好みの声で優しく起こしてくれ、顔を優しく洗ってくれ、朝食は健康状態のチェックのもと適切なものを口まで運んでくれる。そう、ベットに横たわったままである。会社に出社することもない。会社の母屋や移動時間はムダな事として社会から排除されている。PCを前にして、思うだけでよい。声もいらない・・・そう、それもベットの上で。休みの日、釣りに行こうと思えば、部屋中が船となり海原へ出ている魚が釣れて体感もある。そう、ベッドの上で。にやりとするその姿は、ぶくぶく肥った醜い生命体である。・・・なまけものの方がまだましである。

卑屈・・・ある先生に教えてもらった。悪の4D。<どうせ、でも、だって、だけど>だそうだ。怯懦と怠惰が重なると凄いメンタリティが現れてくる。「どうせ・・・」待て、やってもいないだろう!「でも・・・」待て、じゃ、それをやってみなさい!「だって・・・」待て、意見をまず受け止めなさい!「だけど・・・」待て、今まで何を聞いていたのか!人を頼りながらも、自分のネガティブな正当性を主張する姿勢は縁を自ら壊す要因になっているのである。一番避けたい失敗や損を自ら招いていることを気付くべきだ。

怯懦・怠慢・卑屈・・・誰もがこんなメンタリティに陥りたくはない。大病や被災などを被った人は強くなるという。何故か、人は生死の境までいくと人生観が変わる。もっと言うと死生観を身につけるのである。死生観教育は、古来より存在した。「人は必ず死ぬ」という厳然たる真実を学びながら生きてきた。それをテーマに演繹的に自分の生き様を模索してきたのである。そう、残された時間をどう生きるべきか?元来、人間は欲張りである。あれも知りたいこれも知りたいと。いいではないか、それで。

これらネガティブ・メンタリティを克服するには”勇気”しかないのである。言葉尻の勇気ではダメだ。勇気は育てるものである。決して天から降ってくるものでも、店で売っているものではない。育てるのである。知識を蓄え、課題を見つけ、人に出会い、世に問い、評価を甘受し、やがて自分は何をやるために生きているのかが見えてくる。それがである。それがあれば行動の障壁となっているものを凌駕する勇気はおのずとでてくるのである。

動きたし、なれば勇気のホコタテ使うべし!」である。






















誰でも今より成長したいと思っている。年配の人もそうだ。私の知人で還暦を超えた人で改めて大学で学び直す人が何人もいる。その話を聞くたびに自分自身に「・・・まだまだ修行が足りんなぁ・・・」と自戒するのである。では、”成長”というがどうすれば成長出来るのか?時間が経てば?齢を重ねれば?本をたくさん読めば?・・・成長出来るのか?

大学生とよくこんな会話をする。
私「この講座に何を求めて来たの?」
学生「はい、学んで自分を成長させたいからです!」
私「ほぉ・・・じゃ、君は何を学べば成長できるの?」
学生「はい、自分の知らない事色々です!」
私「ふーん・・・知ったら成長なの?」
学生「・・・と思いますが・・・違いますか・・・?」

確かに知らないことを事を知ることは大切な事だ。知識を得るというのは成長のプロセスである。しかし、一概には言えないが知識の吸収を、知ってるレベルで終わらせていることが多いと感じるのは私だけだろうか?成長にはスキームがあるのである。

捨てる・・・新たな自分作り、過去からの飛躍を考えた時にいつも邪魔するのが、これまで身についた”習慣”である。無意識に新しい刺激に対しての忌避反応が働き、昔の習慣が頭をもたげてくる。そして、徐々にそちらへ流されていく。そちらの方が楽だからだ。本当に成長したいならば、これまでの”習慣”を捨てることから始めなければならない。成長へのファーストステップは「私は○○を捨てる!何故ならこうなりたいからだ!」から入らなければならない。

見つける・・・新しいことを始める。こうなりたい、こうしたいと思うことの方が”捨てる”よりも先にくることが多い。しかし、この場合、今までの自分の経験値に重ねてしまうケースが多い。そうなると”捨てる決断”がはなはだ弱い。人は何もかも抱え込もうとして、人生の快速性を失う。そして、どれも中途半端に終わる。捨てる⇒見つけるの流れを同時に出来ると良い。

仕組む・・・見つけたものを”形”にするためには、時間軸がいる。いわゆる継続であるが、新しい習慣と置き換えてもいいだろう。では習慣化するにはどれほどの時間がかかるのであろうか?半年?1年?3年?いや、2週間でいい。人は意思を向けたものへの習慣化はこのくらいの時間で順応する能力がある。そうすれば、その新しいことへのチャレンジプロセスは巡航高度まで上がる。あとは、航続距離を伸ばし、その新しい世界で、新しい学びや刺激を味わえば良い。

「捨てる」⇒「見つける」⇒「仕組む」・・・この流れが1ユニットである。ここで船の話をしよう。どんな船でも新造船となると、快適に海原を運航することが出きる。運航した後は、港へ寄港係留という流れがある。その際、この係留時に何をするかによって次の運航に支障が起こる。あまりにも係留時間が長くなれば、船底に”かきがら”が付く。そのまま、運航すると前回より速度が落ちている。当然である。その”かきがら”が抵抗を増し船のパフォーマンスを下げるからだ。

人の場合、この”かきがら”に当たるのが”慣れ”である。仕事の流れや要領が理解できてくると、人は日々に刺激を感じなくなる。それで不都合がないのでそのままに過ごす。しかし、ある日”私はこのままでいいのだろうか・・・?”という自分に疑問を感じ始める。パフォーマンスが落ち始めるのである。
自分再生のために”かきがら”退治をしなければならない。慣れを削り取る=「捨てる」である。そう、仕組に慣れたら、「捨てる」をまた行うのである。

成長のコツをつかめば快速人生、かきがら退治で初心忘れべからず!





君、もう少し冷静になって考えてみてはどうか?」・・・熱い思いで考えたことを、よくこの言葉で水をさされることがある。もちろん、熱情、根性、気合いの類でだけで考えたものの出来は、総じて良くはない。それは、独善的、排他的、狭隘的に陥りやすいからである。

では、「・・・冷静に・・・」という側は、冷静の意味を理解して言葉を発しているのであろうか?「冷静とはどういった状態を示すのですか?」と問われたら、何と答えてあげるのであろうか?

自考能力の開発を促すこの講座では、何よりも主体性を重視する。まず主体性ありきである。自分が何もしないで、他の批判や中傷だけを繰り返す人間の”エセ客観性”は相手にしないでよろしい。経験や学びの成果としての客観性を重視したい。それは謙虚に聞くべきであろう。

主体性・・・何よりも大事な発露である。これなくして、どんな分野でも成長の眼は生まれない。情熱があり、志があり、野望があらねばならない。大きなエネルギーであればあるほどよい。しかし、頭や心の全部を使ってはいけない。“余の世界”を残すのだ。

客観性・・・主体者の周辺の意見を求めよう。主体者のことを知っている人ほど良い。その人は、主体者の思考性や行動性などを知っている。主体者がおそらく向かうであろう”性向”を大なり小なり予測できるのである。

蓋然性・・・がいぜんせいと読む。必然性の対義語である。確からしさを意味する。その数値化が確率である。主体性+客観性が整えば、世に問うしかない。この蓋然性を受け入れることである。主体者の主張・企画・アイデア・・・机上や会議室から解き放ち、この蓋然性を詳らかにしよう。

この主体性⇒客観性⇒蓋然性の流れを持って”冷静”と言える。主体者は、自分の主張に情熱をもって周囲に問い、客観者の経験値や学習能力で助言し、世の確からしさを受け入れる・・・。この繰り返しが、主体者の自考能力を高めていく。批評や非難を恐れてはいけない。

主体者へ付け加えたい言葉がある。それは”ゾーン”という概念である。これはプレイヤーがこれまでにない成果を、突如たたき出すことがあることを受けて始まった研究である。スポーツ界ではこのゾーン状態をどう作るかの研究が進んでいる。
心理学、体育学、生理学、神経学などの分野で研究が進んでいる。この状態は、主体者のパフォーマンスが客観性や蓋然性を凌駕してしまうのである。但し、このゾーン状態に入れるためには、不断の研鑽が背景になければならないことを付け加えておく。

冷静は、主体・客観・見つめる眼を忘れずに!」である。










会社では上司や先輩が「遊んでないで、仕事しろ!」家庭や学校では親や先生が「遊んでないで勉強しろ!」と。言われた本人は、口に出そうが出すまいが「ハイ、ハイ」「うるさいなぁ~」「今やろうと思ったのに」・・・と反応の相場は決まってる。とかく人は他人の怠け模様が気になるらしい。

では、社会で”仕事”と呼ばれるものの正体とはなのであろうか?1日8時間の勤務の中で、ずっと仕事をしているのであろうか?朝礼・電話・移動・交渉事・会議・日報・接待・・・は仕事?

「会議」は仕事か?仕事と言える会議をやっているか?儀礼にはなっていないか?慣習になっていないか?コミュニケーションの場という言い訳になっていないか?「仕事の定義とは?」部下や後輩に問われた時何と答えるのか・・・。

無から有・・・何もないところから形にするのが仕事である。その形を循環・再現・継続していくのが作業である。

三無の除・・・ムリ・ムダ・ムラを取り除くことが仕事で
ある。ムリ・ムダ・ムラを承知で、もしくは知らずにやり続けるのが”作業”である。


仕組の創・・・無から有を生み出せたら、それを循環・再現・継続する仕組みを作るのが仕事である。その仕組みを忠実にこなすのが作業である。

「会議」を仕事とするならば、何かを生み出さなければならない。決断・決定の場であれば、それは”仕事”である。決定事項の相互確認の場であれば、それは”作業”である。

何もないところから、何かを生み出し、仕組に仕上げるまでが仕事である。その仕組をコツコツと重ねていくのが作業である。仕事は後の作業を見据えて形に仕組にしていかなければならない。作業は仕事で出来た仕組みに逆らってはならない。でないと仕事の精度が判別しない。しかし、作業は気づきの場でもある。作業の中に仕事を見出すことが出来るのである。それこそが宝である。それを”カイゼン”と呼ぶ。入社したての頃は作業工程に配属されることがよくある。そこで、小さな仕事を見つけてほしい。必ずある。それが後の仕事の世界で必ず役に立つからだ。

仕事の先には作業あり。作業の中に仕事あり」である。




過ぎたるは猶及ばざるが如し・・・誰でも一度は見聞きした言葉であろう。『論語』に出てくる金言である。これは、何事にも過ぎるのは良くない。災いが生じる種になる。どちらかというと、まだ足りない方の方がマシ・・・という訓えである。では、我々の世界にあてはめてみよう。ちょっと敬遠される意味合いで、はしゃぎ過ぎや羽目を外し過ぎ、酒の飲み過ぎなんて言葉もある。

確かに、過ぎることは今も昔も周囲に迷惑をかけることが少なくはない。しかし、”過ぎるほどやる”というエネルギーや勢いを否定的な尺度だけでとらえるのは如何なものか・・・?と思うのである。過ぎもしない、不足もしない、完璧に予測通り、計画通りというのはそう多くないのではないか?”過ぎる”ことで、人は”ここまでしちゃいけないのか・・・”ということを覚えることもある。

ただ、仕事そのものという世界では、”過ぎる”は良くないことが多い。

考え過ぎ・・・この迷宮に陥る人は多い。思考の基本「法則・原則・選択」でもお伝えしたが、選択の領域の中で右往左往していることが多い。ましてや、具体的な解決案の出ない考え過ぎは体にも悪い。

動き過ぎ・・・基本動作「動く」でもお伝えしたが、考えながら・計りながら・整えながらならばいいが、とにかく動き回る・・・時間の無駄、体力の浪費、成長の阻害につながる。

喋り過ぎ・・・組織の上席に多い。特に叱責のシーンで顕著である。相手は半分以上は聞いていない。嵐が遠のくを待っているだけなのである。意図が届いていない。短いフレーズの叱責ほど、相手は考えるし、怖い。

考え方・動き方・喋り方・・・学生時代から学ぶ環境が理想である。そうすれば、社会に出ても本人は余計な苦労をせずに済み、組織は余計な教育カリキュラムを組むこともない。しかし、現実は違う。

世の中の先輩諸氏は、文句を言う前に原則を教えなけらばならない。そう、生き抜いていく原則である。下手な処世術や下世話な手管など要らない。本人も、組織も後々迷惑なことになる。

サクッと考え、スパッと動き、キーワードをポーン!」である。











2015年・・・人手不足である。指導している学生へも複数の企業からアプローチがあるという。数年前の就職氷河期が遠い昔のように思える。考えれば、世の中の需給バランスが取れていた”時”というのは、めったにないというのが真理なのかもしれない。

巷では・・・少子化だ、人口ピラミッドがやばい、年金はどうなると喧しい。しかし、組織は、特にビジネス界は確実に訪れるこの未来予測に手を打たねばならない。女性活用の見直し、シニア層の復権、外国人の登用・・・可能性の模索に余念がない。

ここで、個人・組織の自考能力が問われるところである。今までの”慣習”だと10人いないと出来ないのに今は5人しかいない・・・どうする?少しでも発想力があれば、色々な打ち手は思い浮かぶであろう。派遣社員で補う、機械化する、仕事を断るという英断する経営者もいる。その発想力の中でひとりが2人分仕事をやる!という考え方がある・・・理想的である。

切り口を変えよう・・・サッカー日本代表の監督を務めたイビチャ・オシムさんが組織の強化で使った言葉「ポリバレント(polyvalent)」という概念がある。多価の意味である。ユーティリティ・プレイヤーといえばわかり易いのかもしれない。

一人2役、一人3役・・・組織を束ねる人間にとっては魅惑のことばでさえある。確かに、組織にはそのような能力を持った人材はいる。しかし、数はそう多くない。では、どうするか?育成するしかないのである。ではどうやって・・・?

今回の自考能力開発は、ポリバレント人材育成の提案である。「動く」ことに着眼する。

考えながら動く・・・これが出来る人は意外と多い。

計りながら動く・・・動きながら計画を修正していける能力である。常に最低3つくらいのオプションプランを保持していることがポイントである。

整えながら動く・・・後始末をしながら、準備をしながら動く能力である。発想力・創造力・先見力などが求められる。

これらのことを、自分自身なり、組織なりの“習慣”にしてしまわなければポリバレント人材育成の環境つくりにはならない。鍵は、自分の、組織の時間意識の転換を喚起させることである。

◆「ひとつのことをコツコツとやりなさい!」
⇒「いつも3つのことを考えながら動きなさい!

◆「仕事が終わったら、今日を省みて日報を書きなさい!」
⇒「仕事終了時=日報終了・明日の準備完了にしなさい!

人は、厳しくとも与えられた環境下に順応していく。途中でくじけることもあるだろうが、それをこなす人材もいる。特に時間への順応は、その環境が無い限り身にはつかない。

一石3鳥ポリバレン!!である。








法則・原則・選択

自考する、自分で考えるということだが・・・文明の進歩における着眼が”削減”というキーワードであるならば、考えなくて良い環境を作ることも進歩なのだろう。ネットを開けば、知らない知識は手に入る時代である。辞書を片手に・・・なんて言葉は死語に近い。

では、知識は何の為に手に入れるか?それは自分の未来に役立たせるために・・・。確かにそうだが、”知ってるだけ”で本当に役に立つのであろうか?米は知っているが、炊き方は分からない。プールは知っているが、泳ぎ方は知らない。知識はあるが、使い方がわからない。かなり、もったいない話である。

知識を手に入れることは収穫である。極めて大切な作業である。しかし、その収穫物をどうするのかが重要である。この”どうする”というのが、考えるということになる。

自考するためには、考え方を身につけなければならない。ここで、一足飛びに考えられる人は良いが、そうでない人には”思考の浮島”を使ってほしい。

回答という向こう岸がある。ぼんやり岸が見えている人は問題ない。全く見えない・・・こういう人は”思考の浮島”を手に入れることである。

法則・・・人智の及ばない世界。自然の法則や物理法則に逆らってはダメ

原則・・・人類の知恵が集まってる世界。格言や金言などは未来を予測する示唆の宝庫

選択・・・考えや行動を形にする世界。法則・原則に外れてなければ、選択は”どうぞご自由に!

そして、迷いはこの選択の世界で起こっている。A案がダメなら、B案、でもダメだからC案・・・。こう横軸展開している以上、向こう岸はみえてこないのである。A案がダメならばB案に行く。そのこと自体は悪いことではないが、それはA案の検証後に行かなければならない。

そこで思考の浮島である。検証をどうすれば良いかがわからないからである。検証のために、一度、原則に戻ってほしいのである。確かに過去の原則に浮島はないかもしれないが、人のやることである。何百年何千年の知恵は、見過ごすにはもったいない。

昔、我が人生の師より「答えは歴史に出ている」という訓えを頂いた。慧眼の金言として今も大切にしている言葉である。「迷えば原則に戻れ!」である。