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自考能力開発講座

自分で考え、自分で行動するには、何が重要か?”考える”ということはどうすれば出来るのか?過去にとらわれ、今に悩み、未来を憂う人に贈る『自考能力開発講座』




人類の歴史は奪略の歴史とも言える・・・

有史以来、人類は弱肉強食よろしく

強者が治世を担ってきた。

しかし、盛者必衰の理の通り

やがてその隆盛は衰退していった。

衰退の背景にある勢力こそが

「与え」れられた集団と言える。

来る世の栄光を約束され・・・

金銀財貨の報酬を約束され・・・

指導者の魅力に賭けた・・・

希望・・・

人を動かすには希望がいる

その希望は、理想であったり欲であったりする。

現状に満足しない人間にとって

不遇の環境に”慣れる”か”抗する”か”耐える”か・・・

だが、いずれにも希望があるのである。

だからこそ、生きていける

その希望の先にある未来に我を賭すのである。

絶望だけは避けたい

一縷の望み・・・いつも人はこれが欲しい。


感謝・・・

ありがとう・・・である。

「有難い」・・・めったにないから”ありがとう”となる。

幸せの敷居を下げるとこのありがとうがよく見える。

自分はこれくらいのレベルにならないと・・・

自分ほどの人間はこの程度では・・・

自分くらいになる少々のことでは・・・

自分の敷居を上げて頑張るのは良い。

しかし、それだと感度エリアが狭いのである。

つまり情報が入り辛くなる。

自分でやることは敷居が高い方が良い。

努力の余地を残している”楽しみ”がある。

だが、他人のやることには敷居を低くする。

世間の景色は変わる


気配り・・・

日本人は、この感性を最重視する民族のひとつである。

心の・・・機微、襞、琴線などの小さな焦点も特徴である。

その精神は、日本独自の精神文化を育んできた。

それが利己主義の台頭により

価値観が”総論的”には薄れてきている・・・が

”各論的”つまり対個人では未だに根強い

気配りを受けると、恐縮し、感謝し・・・嬉しい

気配りされないと、不満だし、不快だし・・・腹立たしい

ただ、このメンタリティは日本だけに限らない。

世界共通の概念である。

無視の反対・・・愛である。

人は関心を示してくれた人にしか関心を示さない


「与える」という姿勢は、施しの意味ではない

もっとも”リア充”に近づく基本動作なのである。

与え続けたら必ず帰ってくる

それは金銭や処遇の話ではない。

人が幸せに生きていく上の必須科目なのである。

キリストの愛、釈迦の慈悲、孔子の恕・・・

全てこの「与える」を説いているのである。

与え続けて生きれば・・・笑える!」である。







とかく人は欲張りである・・・

手にした物、眼にした物、貰った物・・・

手放せない性分のようだ。

だからと言って、いつも重荷を捨てたがる・・・

とかく人はややこしい。

・・・

入ってくるものを断つこと。

目の前を過ぎる情報を何でもかんでも

手を出してしまう・・・

後にそれが苦痛になるほど重い

それは、自分自身の定見が無いからだ。

学びは価値観のフィルターを作ることにある。

それが無いと怒涛の情報に溺れてしまうのである。

・・・

今、手にしているものを手放すこと

人はいつの間にか余計なものを抱えている。

新造の船も長時間港に係留されていれば

かきがら”がまとわりついて

快速度は上がらない。

今の自分のかきがらは何か?

見つけては捨てる・・・

清々しさが戻ってくるのである。

・・・

もの自体に執着しないこと。

人は、物であれ、思考であれ、人脈であれ・・・

集めようとする。

そして、後に”・・・何でだろう?・・・”と悩む。

自分の生き方にとって必要なものは何か?

その”生き様の幹”を定めることが大事。

人は色々出来ないのである。

出来ることの繰り返しが自分の道と言える。

断舎利は、心を安らげる思考のダイエット!」である。




人の本性はややこしい・・・

現状に不満をもちつつも自己評価は意外と高い

それは自分への期待がある証でもあるのだが・・・

だから、”今の自分を変えたい!”となる。

では、どう変えたいのか?と問うと・・・・・???となる。

やはり、自分のことだけでなく何かを変えるということは

それなりの目的が必要なのであろう。

情報ルートの変更・・・

自分を変える時に第一に考えたいのが

慣れ親しんだ情報入手ルートの変更である。

馴染み深いがゆえについ頼ってしまう

確かに安心感はあるが、ここが怖い。

安心感というのは慣れを助長させる側面を持つ

つまり刺激は少ないのである。

たまには、時には、気の迷いから・・・で良いから

ネット中心の人は、書物から・・・

書物中心の人はネットから・・・

少しズラすことで新鮮さを取り戻すことは多い。

出合数の増大・・・

出合う人種を変えていますという人がいる。

余りお勧めはしない。

何故なら、これまでの出会いが自分自身の根であるからである。

新しい花を咲かせたいという気持ちはわかるが新芽は弱い

これまでの縁を土台にして、人と出合う量を増やすのである。

このときのコツは、新しい出合いの体験を

これまでの縁の人々と共有することである。

敵は親中にありである。

旧知の親しい人には合う時間の少なくなる分

コミュニケーション度合いを増やすのである。

電話・メール・SNS・・・現代はそのことも容易だ。

「与」への姿勢訓練・・・

自分を変えたいという心境の時は得てして

自分以外のものから何か”もらおう”とする意識が強い。

新しい刺激、知らない情報、魅力的な提案・・・

これは危険だ

欲しがり体質を鍛えてしまうことになり、

何時も満足せず、何時も深堀せず、何時もふらふらする・・・

自分を変える為に新しい刺激が欲しければ

まず、自分から発信する情報量を増やすことだ

呼吸である

思いっきり吐き出せば、それだけたくさん酸素は入ってくる

じゃ、何を?

相手が喜ぶものは何か?そこから始めてみるといい。

人間は喜ばしてくれる人にお返ししたいという本性がある。

与えれば帰ってくる・・・幸福への原則である。

自己変革望むなら、捨てよ我が馴れ合いの時!」である。





イノベーション・・・技術革新と日本では訳されている。

しかし、語源を見てみると「内なる刷新」のことをいう。

イノベーションは技術に限らない。

人の価値観の変革もイノベーションであり、

用途を従来から変えることもイノベーションである。

内なるもの(既存のもの)をより豊かに機動的に簡便にすること・・・

全てイノベーションと言える。

では、イノベーションはどういう切り口で起こっているのか?・・・

削減・・・現在主流のスマホを考えるとわかり易い。

日本製は機能の複合化で欧米からは「 Too Much!」と呼ばれ

なかなか世界基準にはならない。

しかし、見方を変えると財布を持つ、手帳を持つ、地図を持つ・・・

などの行為を”削減”してるともいえる。

世界的にイノベーションの事例としてよく取り上げられるのが

サウスウエスト航空の事例である。

それまでの旅客航空機の概念を変えたものである。

今主流のLCC航空会社の先駆けとなったとも言えるが・・・

同社のイノベーション事例を見てみると少し違う。

廉価・・・だけではないのである。

サービスとは何ぞや?と考えてしまう・・・

まさしく価値観の変革である。

速度・・・イノベーションをある側面から見ると、

それはスピードアップの変遷という見方もできる。

ネットにおける通信速度の革新などは良い例である。

何かを従来より早く出来る・・・イノベーションの主軸発想である。

人類は有史以来、この速度に関するイノベーションを行ってきた。

自分の意思を、いち早く他者に伝達する・・・。

それもより遠くにいる他者へである。

そのイノベーションへの欲は、人間の慣れに起因する。

人はストレスがかかると改善改革に走りはじめる。

ストレスは時間に対するパフォーマンスの不満で起こる。

だから、速度の改善がイノベーションの主軸になるのだ。

意匠・・・デザインである。

1:1.618・・・黄金律
と言われるものである。

パルテノン神殿やモナリザなどの美しさを語る時に目にする。

ではこの黄金比で作られた”お菓子の箱”が売れるのか?

これは、否!という結論が出た。

実際に売れるのは、1:1.414や1:1.732という比率の物という。

このことに気付いたのもイノベーションである。

ご存知Apple社が、1998年にiMacというパソコンを売り出した。

従来の画一的なデザインと異なり、

なんと未来を想起させるデザインであったか・・・。


人間は経験と慣れの生き物である。

新規に飽き、次を求める。貪欲である。

しかし、それがイノベーションの原動力であり

文化文明の発展に貢献してきた。

そんなに便利にならなくていいじゃないか・・・年配の弁である。

変化に対応出来なくなると、守勢に入るのが人の常。

しかし、いつの時代もイノベーションは止まらない


内なる刷新恐れずに、挑め日々のイノベーション!」である。







「堪え性」・・・という言葉がある。堪忍度、我慢強さの意味である。

学生指導の目途のひとつが「我慢とは何か?」というテーマだ。

だが、我が身にふり返れば”出来てないなぁ・・・”自省しきりである。

山本周五郎の著作で<ならぬ堪忍>という作品がある。

真の堪忍(我慢)とは何か?ということを示唆した名著である。

本当の我慢とは、もう我慢ならん!ということを我慢することと。

しかし、人はなかなか我慢ができない生き物かもしれない。

執着力・・・粘り強さの能力。

何のため自分は今ここにいるのか?

それが明確でないとこの執着力は出てこない

今の苦労、苦痛、苦悩、苦役、苦心、苦衷、苦慮、苦行・・・も

自分の役割や存在意識を持っていればこの執着力は増す。

もちろん、我欲我執の世界とは違う。

それは執着でなく、”しつこさ”や”くどさ”である。

目標や目的がないと執着力が身につかない

許容力・・・他を許せる能力。

人は自分の感性からズレるとストレスを起こす。

代表的なストレスは”時間のズレ”である。

自分より仕事の早い人には劣等感というストレス・・・。

自分より仕事の遅い人にはイライラ感というストレス・・・。

とかく人は相対的で独善的である。

寛容さは後天的な素養の部分が多い。

よって鍛えなければ身につかない

幼少の頃から我慢を強いられる環境を

”かわいそう・・・”だけで片付けてはならない。

筋金入りの我慢強さを持つ人財になる素質がある。

”修業”としての鍛え方の着眼は『時間』である。

時間の持つポテンシャルを様々な角度から見るといい。

先見力・・・先を見通せる能力

人は先が見えないと不安になる

風邪は万病の元ではないが、不安は様々な心の疾患を招く

もちろん経験が浅いと未来への予測が立てにくい。

そういう時は、仮説を自分に課すことである。

”これを超えたら、こんな楽な環境になる・・・はず”

”あれをやりきったら、その後は心配ない・・・はず”

”それさえこなせれば、認められる・・・はず”

このように自分の仮説を立てる習慣を身に付けてほしい。

その実証率の検証反省が先見力を鍛えるのである。



組織は、所属の人間に耐久を強いる

それを越えてきた人材が人財となっていく。

歴史や経験を経て独自の篩(ふるい)がどの組織にもある。

そのい篩の穴に落ちない能力が耐久性である。

ならぬ我慢のその時に、運命分ける分岐点!」である。













お前の会社、いい会社だなぁ・・・羨ましいよ・・・

ある居酒屋で聞いた友人同士の会話だ。

”・・・いい会社ねぇ・・・”とおぼろげに思いつつ、

”・・・いい会社って何だ?”と考えた。

人は自分の感性がスムーズに反映できる環境では

ストレスをあまり感じない。

いわゆる社風という風土に馴染めていると

気持ちよく仕事ができるというわけだ。

では、その風土にはどんな型があるのか?

緊張型・・・ピリピリした空気が漂う職場

確かに、真剣勝負の場に緊張感は欠かせない。

問題は、その緊張感の種類だ。

もっと言うと、緊張を強いる対象は何だ?ということである。

仕事そのものに対しての緊張であってほしい。

これが、ある特定の人であった場合には

生産性の阻害となる可能性がある。

こんな格言がある・・・『社長は会社に顔出すな!

部下にとって、最高責任者に見られながら仕事をする環境は

別の意識を持たなければならない。仕事に専念できない。

だから生産性が落ちる・・・とい論理なのである。

協働型・・・ワイガヤ許容の職場

欧米のビジネス観で今疑問視されている仕事観である。

日本の職場はこのワイガヤ環境で知恵やアイデアを生んできた

それこそ日本の風土であった。

集団で戦うことを得意とする国民性の根底が見え隠れする。

欧米から見ると、「なぜ、仕事中におしゃべりしてるのか?

合理主義の素直な感想であろう。

OECDの生産性データで日本は平均値以下である。

これは1時間当たりのGDP換算である。

ここからワイガヤ時間を差し引いて換算すると当然数値は上がる。

かといってワイガヤ時間をなくせ!とはならない

互いを知るためには会話は重要である。

阿吽の呼吸という概念はこれがベースで成り立つのである。

放置型・・・個の能力に委ねる職場

おそらく今後日本でもこの型が増えてくると予測される。

未来の組織の主流は組織内起業家の集団である。

そこには責任を重視してきたスタイルから

自由という要素
を加味した就労スタイルが主流になってくる。

このスタイルがなぜ増えてくるか?

経営責任の削減分散意識・・・

所属意識の忌避感・・・

直面対応の非効率・・・

などの社会性向が確実に進行している。

しかし、こうしてみると”この型が良い!”と言えない。

どの型も一長一短である。

覚悟を決めてある型に徹するか、冒頭の図の交差を試みるか・・・

いい会社という定義はない。

個々の感性次第
であり、相対的なものである。

だから組織に対して自分の選択が大切になる。

組織には良し悪し云々考えず、我の生き様大切に!」である。






巷では真新しいスーツを着てフレッシュなビジネスマンが頑張っている。個人的な心持を言うと・・・・「・・・生き残ってくれよ・・・」と余計な老婆心が働いている。若者の離職率などを見ると、ついついおせっかい心が蠢いてしまう。終身雇用という概念が薄まっていく世の中で、若者に辞めるなとは一概には言えない。だが、しかし・・・なのである。

自分の望んだ会社や職種ではなかったのかもしれないが、退職理由の内容を聞いていると次は大丈夫なのか?とまたまた小言が漏れる。キャリア・カウンセラーの先生から”七五三”の話を聞く。3年以内の離職率の話だが、大卒で3割、高卒で5割、中卒で7割というデータがある。まぁ、それぞれ事情や思惑はあるのであろうが・・・。ここで、組織に所属するということに関してひとつの着眼を上げてみたい。

手伝う・・・ある組織に入りたての頃はそれこそ右も左もわからない。何をどうしていいのかわからない。誰でもそうである。だったらどうする?先輩や上司を手伝うことだ。この組織の仕事とは何なのか?自分は何をすれば役に立てるのか?わからないから触れてみるしかない。何も最初から責任を負ってやりなさいなど誰も言わないし、やらせないし、できない。でも手伝うことはできるだろう?何を手伝っていいかわからない?じゃ、上司や先輩に聞きなさい。そして、しばらくすると、”これをやれば先輩や上司は、少しはありがたいと思うのかなぁ・・・”と予測して自らやってみる。それを世の中では
実験
という。実験という言葉はいい。実験は失敗を許容する場であるからである。そこで、覚えるのである。何をやればダメなのかを。その覚えの遅速がいわゆるセンスである。

関わる・・・そこそこ仕事に慣れてくると、いよいよ己の仕事になってくる。つまり、組織内の仕事のメインストリートに行かされるわけである。その機会はある日突然やってくる。ある日、上司から呼ばれ「○○君、来月から君はここを担当してくれ!」と。ここから本当の仕事が始まる。何故なら、お手伝いは初心の者を慣れさせる作業だからだ。次はその作業の流れを自分で作ってみろということだ。その為に、自らテーマを掲げ、解決策を立案し、それを実践し、結果を精査反省し、新たなもしくは気付かなかった課題を掲げ、解決策を立案し・・・を繰り返しのである。仕事の種類は関係ない。全てこのフローで進めるのである。

伝える・・・「自分は広報や企画立案に向いてると思います!」・・・考えてほしい。組織の仕事の流れを理解してない者をそのポジションにつける酔狂な組織は無い。適正を判断するのは、その人物を客観視してきた者であり、尚且つ人事権を持つ者が適性を決めるのである。他者の手伝いから始まり、仕事に関わった経験を持つ者がその組織内で”伝える役割”を担う資格を持つ。伝える役割は何も広報活動だけではない。部下や後輩に知恵や経験を伝えることもそうである。伝える役割を担った者を世間では出世したと認識する。

スピード化の時代である。社会に出てすぐに大活躍できるとイメージするのを愚かだとは思わない。その意気込み軽んずべからずである。問題は、そのギャップを感じた時の対処の仕方にある。目の前のダメだし現象だけで”自分は向いてない”と判断するのは間違いである。ダメ出しは課題である。その課題を解決するフローは先に述べた。その一連の仕事観を今の場所で学んで転職しても遅くない。新しく採用してくれる組織は、「是非、それを学んでわが社へ来てね!」と思っている。

目の前の作業仕事が出来たなら、きっと登れる人生の頂き!」である。













求職者のための支援講座で指導した時の話。年配者の多いクラスである方が「この歳になると、面接さえも受け付けてくれない。ある程度の年齢になると再就職にはやはり不利でしょうか?」と質問を受けた。この質問は多いもしくは”どうせこの歳だし・・・””年寄りには敷居が高い・・・”と内心どこかあきらめ気配が見え隠れしている。確かに、各企業は採用の基準は違う。年齢のバーは「年齢問わず」と募集要項に書いていながら、やはり年齢で最初の振るいで選別するところもある。若い方が有利なのであろうか・・・?

ここで「若さ」について考えてみよう。若さの判定は先入観であろう。まず実年齢。採用する側は、実年齢が若い方の方が、もの覚えも早いんではないか?健康上の理由で仕事がとん挫する確率も少ないのではないか?家庭問題で仕事の支障は少ないのでは?・・・などの先入観が先に来る。統計でみると一理あるのかもしれない。では、「若さとはなんだ?」と問われると何と答える?

好奇心・・・かつてユダヤ系アメリカ人でサミュエル・ウルマンという無名の詩人がいた。彼の作品の中に「青春」というタイトルの詩がある。この詩はダグラス・マッカーサー元帥に愛され、松下幸之助氏が称賛した詩である。世界中で各界の著名人がこの詩を心の糧とした。ここには、年齢で人は老いない。好奇心を失った時に人は老いていくとある。これは大きな分岐点ではないだろうか。いくつになっても、眼をキラキラして自分の知らないことに興味を抱き若い人にでも素直に教えを乞う・・・この姿勢の年配者ご老人に出会うと、こちらも元気になる。
「青春」サミュエル・ウルマン

熱情・・・実年齢が若い時には、知らないことが多い。そのストレスは周囲にやんちゃなエネルギーとして放射する。その放散されるエネルギーは歳を重ねていくにつれ、”生き様”の方へ収束されていく。総じてそれを大人になっていくと呼んでいる。その生き様は、ある者は強者に従い、ある者は強者になろうとし、ある者は独歩の道を行く・・・。生き様は様々である。しかし、その道の中で若き頃のエネルギーが進む道を照らして歩んできた者は、見事にエネルギーを収束出来ていると言える。そんな生き様をしている者を他人は、情熱的、エネルギッシュ、熱い人などと揶揄する。自分が出来なかったからだ。しかし、どんな人も若き頃の熱情は未だに持っている。それを解放しようと思えば出来るのである。

目的・・・人はいついかなる時でも目的を持っていたい。今やっていることがどこにつながっていくのかを納得しているのと、いないとでは全く違う。目的を明確に定めている人は若い。眼が死んでない。生きている実感を感じながら日々を過ごしているということである。何でも良い。自分がこうなりたい、これだけは成し遂げたい、これだけは残したい・・・何でも良い。しかし、目的を持つためには”欲”が必要となる。出来れば大欲が良い。私欲や我欲には気を付けたい。妄執、我執ひいては老害と言われかねない。その判定は目指しているプロセスに現れる。目的を追い求めている過程で周囲も応援したい、支援したいと思えるものが良い。その周囲の想いは本人の勇気になり、励みになり、やりがいになる。それは若さを保たせてくれる。

冒頭の求職者への回答である。「もし、あなたがその会社にどうしても就職したければ、どんなことをしても面接まで持っていきなさい。そして、あなたのキラキラした眼を見てもらいなさい」と。企業の人事担当者は、履歴書だけで判断しているわけではない。やはり人物を見たいのである。年配者であろうと眼が輝いていることが伝われば、企業は選考の土俵に乗せる。へこたれない若さを魅せるのである。

若さとは、未知を恐れず、自分を信じ、道を歩むその姿!」である。




















歴史に答えは出ている・・・そう言われれば、凡夫の端くれとして素直に史実を学ぶしかない。改革、改革と叫んでみても、その事績が歴史に残るものはそう多くない。昔の方策が、現在までケーススタディとして残っているものはそれなりに価値があるはずである。

歴史は繰り返す・・・この言葉に功も罪もあることを我々は知っている。○○の再来、100年に1度など結構見聞きする。空前絶後・・・そうかなぁと思う。確かに120年前から始まってる近代オリンピックでみると新記録は空前絶後なんだが・・・。ともあれ、人の為すことは今も昔もそう変わらないとおもうのである。

徳川吉宗・・・徳川家八代将軍。初代徳川家康の残した遺産は歴代将軍家の将軍家の費消により枯渇していたところに登場した将軍でる。吉宗は米将軍といわれる。それは国家財政再建の柱が、米を
中心とした政策が際立ったからだ。代表的なものとして「上米の制」である。大名の参勤交代での江戸在府の年限を1年から半年にする代わりに、1万石につき米100石を幕府に上納させる制度である。
この制度は幕府の財政再建に貢献したが、幕府財政を他藩に肩代わりさせる政策のため幕府の権威失墜を招いた負の部分もある。この例えから、義務の一部を免除する代わりに、その分を金銭で補うということであろう。切羽詰まった際の打ち手でとして苦肉の策ではあるが、財政的には一息ついたのは確かである。しかし、この政策は8年後に廃止される。

上杉鷹山・・・日向藩藩主の次男として生まれるが10歳の時に上杉米沢藩主の養子となる。米沢藩九代藩主治憲。鷹山は剃髪後の号。再建の代表的人物として今も尊敬を集める人物である。J・Fケネディが一番尊敬する日本人に鷹山をあげたことは有名なエピソード。鷹山は
徹底的な「捨てる」を敢行した人物でもある。武門誉れ高い上杉家では儀礼的なコストも莫大。関ヶ原以来1/10になった領国にも関わらず、依然そのままの家臣を抱えていたので人件費が財政を圧迫。家督を譲られた時に、上杉家の借財は約2000万両、今の換算で約150億~200億円といったところか。彼の逝去翌年に上杉家はこの借財を完済している。それだけでも、あらゆるコスト削減を行ったのは分かるが、あえて鷹山の別の面を伝えたい。それは人材育成だったのである。厳しい財政事情の中、かつて閉鎖された藩校を復活させ、当時高名だった儒学者、細川平洲を招き、武家農民問わず学問の機会を与えたのである。後の長岡藩藩士、小林虎三郎の「米百俵」のエピソードでもわかるように、この例えは、窮乏の環境下の学びこそが後々大きく花開くという訓えである。

山田方谷・・・幕末、備中松山藩の陽明学学者。若き頃よりその才能を見出され、内政を担うことになる。おもに目立つ財政再建の手法は”中抜き”と”1人多役”である。当時、世界初の取引整備がなったいた堂島米会所(先物取引市場)への年貢米供給をやめ、自領内にて管理を始めた。平時には、全国で一番利ザヤが上がる市場にて売買し、飢饉時には領内のお救米とした活かし流通の柔軟度あげた。また、特産品の大阪卸をやめ、ダイレクトに江戸へ供給する仕組みを作り上げる。下級武士には屯田制を導入し、農地開拓と国境警備の役割を課した。又、農兵制の導入で武士の意識改革をも促していく。この例えは、既存概念の無駄を排除することにより組織の風通しがよくなり、思考の柔軟度自由度が増すことになる。それは改革のスピードを上げることにつながる。

こうしてしてみると、財政再建をはじめ組織改革は全て人の改革であることがわかる。そこには、やはり道理の徹底に尽きる。それを行うには様々な反対勢力が蠢いているが、組織が生きるか死ぬかの状態の時に身を賭して再建を推進する人物が必要ということであろう。

小手先手管の手法では、ならぬ再建夢のまた夢」である。










組織改革・・・期待感を感じるキーワードである。経営や組織の責任者は、大なり小なり今の組織をもっと効率的で、もっと積極的で、もっと創造力溢れる姿に変質させたい・・・出来れば毎日ウキウキして、楽しい組織に生まれ変わらせたい・・・私が責任者のうちに・・・と考えている。

組織改革の眼目は、既存体質からの脱却であり価値観の変革にある。永年慣れ親しんだルーティンやフロー・慣習を変えるのである。成長のサイクルからいくと「捨てる」決断を要する。個人の既成概念さえ捨てることままならぬのに、組織の既成概念を「捨てる」には大きなエネルギーが要るのは間違いない。

時間の棚卸・・・組織改革の着眼はどこから手を付けるか?それは時間である。組織運営の中には様々な時間がある。まず年間の時間。スタッフ個々の就労時間×人数・・・これが、その組織が持つ基礎的なパワーである。この総和時間で目標値の達成を目指す。この総和時間を棚卸するのである。細分してみると大きく分けて3つ。仕事時間・作業時間・管理時間の3つだ。どの組織もそうだが、驚くほど作業時間の割合が多い。ここにメスを入れることから始める。このメス入れの時間は仕事時間に属する。仕組みを変えるのは仕事であるからだ。まず、”作業時間半減”をテーマに掲げて欲しい。そんな無茶なぁ・・・と声が聞こえてくる。そんな声が出てこないプランは改革ではない。人が相互に認識できる感覚が時間である。この改革作業のプロセスで認識が変化してくる。

行動の効率・・・ここでは特に3つの切り口を上げたい。営業時間・会議時間・終業時間である。営業時間では、1件あたりの受注を精査する。特にその1件を受注するのにどれくらいの時間がかかったを見ていく。移動時間のムダやクロージングの質などが浮き彫りにされる。会議時間では、決済会議に特化する。報告会議は無くすのである。報告は直属上司にのみ行うのである。業績管理の見える化をすれば”吊るし上げ効果”はあるので心配ない。芳しくない結果を何重にも攻撃しても発奮効果などないのである。疲れた体でトレーニングしても意味がないのと同じなように逆効果にしかならない。指導は個別でないと効果がない。終業時間についてはすでに証明されている。終業の時間は”残業”という魔法の時間であやふやな組織が多い。残業ゼロ・・・これは導入しやすく効果が出やすい。人は制限の必要な生き物なのである。それが無ければズルズルといく。仕事に関しては仕事の質がいつまでたっても上がらない。同じ仕事分量を短い時間で片付ける。そうなると組織改革は始まっている。

価値の醸成・・・組織改革の真の目的は価値観をかえることにある。その為には、改革の甘美な果実を少しずつ体験していかないとわからない。短い時間で、成果が見え易いところから手を付けていき、その波紋を大きく広げていくのである。組織改革は一朝一夕にはならない小さな成功を頻繁に見せていくことが大事。焦ってはならない。1年をふり返ってみてその価値が伝わればよい。その小さな成功の重なりが大きな成功である。既成概念を削り取るようにしていかないと、組織は壊れてしまう。ゆっくりと、じんわりと進める。理想の組織改革は”知らぬ間に組織が変わってた”である。

不易流行という言葉がある。松尾芭蕉が唱える蕉風俳諧の理念のひとつであるが、普遍なものを大切にしつつも、新しい気風を入れていく姿勢のことだ。普遍なものはどれなのかを見抜くことが出来た時が指導者の改革スタートである。これだけは守り続けていこうという習慣なり、概念なり、理念なり、が定まった時が改革スタートとなる。それ以外は捨てる覚悟を持たなければ改革は始まらない。指導者にとっての喜びは、影響下にある人々が喜ぶ姿である。腰の据わった組織改革を断行してほしいものである。

改革の日々は毎度難儀なれど、不易流行が明日の笑顔を発芽する」である。