カレーは健康に良い?
今日は、カレーにジャズに飛行船の日です。
【活用場面】
医食同源、食べて活力アップ!
メジャーリーガーのイチローが毎朝カレーを食しているのは有名な話ですが、はてさてカレーは健康にいいのでしょか?それとも・・・
カレーの日は、家族全員が笑顔になるような気がしますが、これだけでも、いい事ですね!
カレーのいいところは、まずは香辛料です。
コショウは胃腸の働きを良くして食欲を刺激してくれますし、トウガラシの辛味成分「カプサイシン」も消化吸収を促進するので、ますます食欲が湧いてきます。ターメリックに含まれている黄色の「クルクミン」は、肝臓の機能を強くして、脂肪を分解してくれるんです。これは、お父さんにとって、とっても大きないいところですね。
カレーは辛いから塩分が多い訳ではなく、カレーのスパイスの辛さは辛味成分によるもので、塩分の辛さとは違います。カレーの塩分は、一食当り2g程度。とても少ないんですね。厚生労働省では、1日の食塩の摂取量を10g以下に抑えるようにと指導しています。この点からも、カレーは減塩食とも言えるってことですよね。
誰もが、みんな大満足のカレー。これはもう、ハナマルをあげるしかないでしょう。
でも、そんなカレーにも弱点があったのでした。
それは、ついついカロリーオーバーとなることなんです。
特にファミレスなどでカレーを食べると、ご飯の量はお茶碗2杯分くらいもあります。そして、油を使ったカレールウにお肉もプラスされると、けっこうなカロリーになるんです。
それから、みんな大好きカツカレーは、カツの衣には油がたくさん吸収されているので、栄養のバランスが良くありません。
またカレーは、一晩おいたほうがおいしくなりますよね。これは材料に味が染み込み、材料同士がなじむためなんですね。だけど、気温の高い時には保存に注意してください。テーブルの上などにそのまま置いておくと、腐ってしまうこともあります。必ず冷蔵庫にしまっておきましょう。
犬猿の仲同士の同盟!
今日は、料理番組の日とライバルが手を結ぶ日です。
【活用場面】
敵の敵は味方!共通の利害を見いだす!
大河ドラマ「竜馬伝」でご存じのとおり、薩長同盟は幕末に薩摩藩と長州藩が締結した密約で、表面的には「倒幕に向けて協力する」と言う同盟でしたが、薩摩藩と長州藩には長きに渡る憎しみ・恨みが積もり積もっている犬猿の仲でした。
第三者の視点で見ると、薩長が手を結べばほぼ確実に倒幕を成し遂げる一大勢力にはなるけれど、犬猿の仲の薩長が手を結ぶのは誰もが現実的には無理だと思っていました。
でも、そんな状況の中で薩長同盟を実現させた功労者が、言わずと知れた坂本龍馬や中岡慎太郎の土佐脱藩郷士でした。
幕末の混乱は、外国の外圧で攘夷派と開国派が激しく対立し、日本が国内戦争を起こして疲弊した隙に植民地化して、いかに日本から有利に搾取するかを狙っていました。
ちなみに幕府を支援してたのはフランス。薩摩は薩英戦争の後からイギリスに支援されてました。
アメリカや他の国は様子を伺っていると言った感じでした。
外国勢のそういうしたたかな考えを知っていた坂本龍馬は、どうにか日本で幕府VS反対勢力(薩摩や長州)の国内戦争を起こさずに政局を安定させられるかを考えていたわけです。
そこで誰もが現実的には無理だろうと思うような、薩摩と長州の手を結ばせることを実現させようと奮闘し、実現させたのです。
そこには、倒幕というイデオロギー的な目標の一致の他に、薩長両者の経済的利益も付け加えたことが同盟成功の大きな要因であり、そこを利用した坂本龍馬の経済的感覚には素晴らしい物があります。
具体的には薩摩名義で長州が仕入れた最新式の銃火器を長州へ送る代わりに長州藩は米を薩摩へ送りました。薩摩は桜島の火山灰地質のため米があまり生産できず、一方長州藩は第二次長州征討に向けて大量の武器弾薬を必要としていた事を旨く利用したのです。
海を渡った元祖ナデシコ!
今日は、玉の輿の日と二十日正月です。
【活用場面】
石の上にも3年?愛は国境や苦境を越える!
1903年9月30日、京都祇園の芸妓・加藤ユキ(雪)がアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められて、落籍され、翌年1月20日に結婚し、渡米しました。「モルガンお雪」の誕生です。
しかし、お雪がモルガンと結婚した当時、日本は日露開戦を控え、戦意高揚の最中であり、芸妓が外国人と結婚すること自体、衝撃的であり、それ以上に世人を驚かせたのは、落籍料4万円、という巨額の金額でした。
そして、この結婚費用は約10万円だったそうで、当時の小学校教員の初任給が十数円であった事を考えると世間は驚きとともに、「玉の輿」とうらやむ人もいましたが、反面、「大金に目がくらんだ大和撫子(なでしこ)」と非難・中傷する人も多かったそうです。
雪には京都帝国大学学生川上俊作という恋人が居ましたが、彼は家族・親族から芸妓と結婚することに反対され他の女性と結婚してしまいました。
モルガンの度重なるプロポーズを断っていたお雪もとうとうモルガンの三年越しの恋、執心に負けて結婚に踏み切ります。
結婚後、お雪は、パリに定住しますが、1915(大正4)年、夫が死亡し、以後、パリやニースなどに約30年滞在していましたが、1938(昭和13)年、帰国し京都に住むます。
滞仏時代にカトリック信仰に目覚め教会堂建設に多額の寄付をするなどしたが、平常の暮らしぶりは質素そのものだったそうです。
因みに、「玉の輿」の語源は、
徳川綱吉の生母「桂昌院」の名前を「お玉」といい、京都の八百屋に生まれましたが徳川家光の側室となり、豪華な輿に乗って大奥に入ったことから、お玉の輿が「玉の輿」の由来となりました。