(ルチアーナ筆。)
もう数え切れぬ程申し上げた事だか不肖、私が山崎育三郎に本格的な発声法の手ほどきを行いレッスンを開始したのは、彼が中学一年生になる相前後しての時期からであった。当時彼は小椋佳氏が主宰するジュニア・ミュージカル【アルゴ】のオーディションに二年連続して合格、驚くべきスピント・ボーイアルトの声質を持って主役を演じ決定的な印象を与え高い評価を得て 周囲を圧倒して見せた。若干12歳の少年の舞台における初陣がこれである。(作品名”フラワー。フラワー・メズーラの秘密。以上の2作。)そして まさにこれが現在周囲に【ミュージカル界のプリンス】と言わせしめる彼の歌歴の幕開きでもあったのだ。他方 彼は正規に歌の勉強をする事を目的として【アルゴ】終了後 から私の下で準備を重ね音大付属の高校(声楽科)へ進学しトレーニングを極める事となるのだが、その彼がこの期から青年期にかけてどの様な経緯を持って歌い手として成熟して行ったかに付いては今ブログで既に私ははっきり詳細に明示しているところである。従って今回 私はここで過去の逸話はもう省き 現在における彼の仕事に付いて述べる事にした。周知の通り彼は 昨年来 舞台出演はもとよりその他守備範囲を格段に広げ先般話題をさらったTBSのTVドラマ【下町ロケット】への出演を機に 他局のドラマは言うに及ばずバラエティー 歌番組等々にも引っ張りだこの状態となっている。そんな中 彼が最近CD(アルバム)をリリースした。主に80年代全般を中心に当時 巷に溢れ聴かれ歌われた流行歌(当時はポップスとか演歌とか我が国では今程の括りは無かった様に思う。)をリメイクして 【ミュージカル界切っての歌唱力を誇る 山崎育三郎が情熱を持って歌う。】…っと言う ある意味で画期的で 又彼をジャンルを超えて いわゆる全国区的な存在に押し上げる為の 【二の矢】としては 頗る有効な企画であったろう。現に彼のコアなファンの方々も既にこのアルバムはお手持ちの事と思うし、私も当然 これを手元に取り寄せ拝聴させてもらった。…がしかし残念ながら 私には何一つ彼のこのアルバムに込めた意図或いは精神性が伝わって来ない。私はここに納められた曲が実際、流行っていた時期をリアルタイムで知っていて個々の曲を持ち歌にする歌い手達も当然熟知している。…っとなると私などは【育三郎の歌】としてこれらの楽曲が歌われたところで その郷愁はオリジナル歌手の歌唱への想いへ直結し育三郎の歌唱表現への関心には結び付かないのである。では何故そうなるのか!。それを検証するとそこには れっきとした原因がある事が分かる。山崎育三郎と言う歌い手は【歌】を構築する能力と生まれ持った かけがえのない程の美声を持っている。私はかつて師弟でステージを踏んだ時、 そのプログラム談話に【声の美しさに限って言うなら私を遥かに凌ぐ。】…っと書いた。その思いは今も全く変わっていない。では何が問題なのかと言えば【彼の歌は何を聴いても常に彼の歌であり、それ以上にもそれ以下にもならない。高水準を常にキープしつつも 個々の楽曲に内在する表現・内容を歌声に乗せ明らさまにするに至らない。】のである。ミュージカルの舞台は別である。一個の人間像に役者としてスポットを当て演じ切る事で芝居の中での立ち位置 役割を満たす その為の演技としての歌唱に徹する事で解決出来るのだから…。しかし 他者のオリジナルを別途 解釈し直し自らの歌唱に同化させる事は並大抵の事ではない。だがそれを彼はやろうとした。企画段階から選曲にも自ら加わって相当な意気込みで臨んだのだろう。しかし その結果は【何をか言わんや!】である。ビジネスベースに乗ったかどうかは全く関係ないし興味もない。育三郎ファンの方なら是が非にでもこのアルバムは手に入れでおこうとされるだろう事は想像に難くない。売れたならそれも又 結構な話ではある。そんな事は私の与り知らない事!。私はその中身を論じている。【歌】とはまさに【歌】が主役であらねばならない。何を聴いても山崎育三郎スタイル、いつでも何処でも山崎育三郎がぴったりと くっ付いて来る。これでは【不可】だ。土台となる歌の骨格を確実にキープしつつ 声の質感 取り分け色調にも配慮し 力感にも注視してかからねば! 曲の元々のスタイルにもよるがpp〜fまで声の【圧】、満ち引きにも充分な配慮がなくては…。即ち十全な歌唱テクニックを駆使して初めて独特の自らの【歌の世界】が表出されるのであり その基盤無くして 全てをオリジナルを上回る個性的歌唱と更なる個性へと導く事など断じて出来ないのである。山崎育三郎のアルバムは【美しく鳴っているだけ!テクニックを一切感じない!。】そこが最大の重要問題なのだ。押し付けがましくなく【テクニックをほのかに臭わす。】これがなくては聴いていて 興ざめとなる。昨今 はたと考える事がある。【確かに育くん!子供の頃から抜群の歌唱力を持っていたけれど、待てよ!よく聴くと その歌い回しや低域の非弱さ…!基本的にはあの頃と何も変わっていないな〜!。】…っと。音大時代の育くん(中退してしまったが…)はまさに登り坂状態だった。研修公演で歌ったモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」のフェルランドも まだ荒削りではあったが実に伸びのある清らかなリリック・テノールぶりであったし 爽やかな繊細さに満ちたトスティやベッリーニの歌曲も実にその声質にマッチした落ち着きのある歌唱を繰り広げていたものだった。それがこの10年余の歳月で【荒れた!。】今やクラシックから離れたのだから 今の評価とはリンクすべきでない。…っと言う向きもある。しかし それは断じて違う!。私共の先生格に当たる 故 立川清澄・友竹正則 両氏の様にクラシック(オペラ出演含む)ミュージカル、ポップス、ジャズetcどんなジャンルの作品でも各々の持つ音楽的特性を見事に掌握、最高のパフォーマンスを体現して下さった諸先輩方は数多 存在しているのであって育三郎に取って今のあり様はプロフェショナルとして全く言い訳にはならない。先述したが 私は常々言って来た。【育くんは本来もっと歌える子なのに…。《失礼!彼ももう立派なお父さんだった。》】…っと。現場第一主義が悪いとは言わない。そこで鍛えられる事も確かに多かろう。…がしかし基礎的レッスンは、歌の勉強は、歌に携わる者個々の声の質感をベースに生涯続けて行くべきものであり、単なる思い込みや現場からの過剰な要求、或いは若さに任せての無理(若いと無理をしてもそれを無理をしていると気付かぬ事が多い!。)が決して長く現役を続ける事に少なくとも良い事だとは言いがたい。育くんには あえて孤独である時間を努めて作り 一人原点に立ち返り発声法の勉強に傾注してもらいたいと今一度要望しておきたい。更に最後に一言平たく申し述べておく。現在の山崎育三郎には総じて勉強が足りない!。それが今禍のアルバムの出来に露呈している。【天性とも言えるその美声・才能】もこのまま勉強を怠ると早晩 枯渇してしまう!。【仕事をセーブしてでも勉強を!】私の言葉は悪罵でも意地悪でもない。愛弟子であった山崎育三郎に対する 私しか言えぬアドバイスと受け取って頂ければ幸いである。