美貌のピアニスト”。 | ルチアーナの音楽時評・アラカルト。

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40年以上に及ぶ音楽家としての筆者の活動と
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5/15「日」Eテレにてオンエアされた【クラシック音楽館】ご視聴させた方も数多おられると思う。この日はN響定期公演の模様が東京サントリーホールからの収録で放映されたが、ここでのプログラムは冒頭と後半にそれぞれR・シュトラウスの名作【変容】と【ツァラトゥストラはかく語りき】を配し壮大なシュトラウス芸術の本領を如何なく発揮しN響のまさにインターナショナルな実力とその芸術的息吹を知らしめるに充分なクオリティを提示していた。その意味において今般、当日タクトを振ったP・ヤルヴィの首席指揮者就任は真に今後のN響の活動に大きな足跡を残す先駆けと捉えて尚、余りある程の素晴らしい選択であったと言えよう。だがこのオンエアでそれよりも増して注目の的となったのが前半二曲目に女流ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリをソロに迎えてのシューマンの【ピアノ協奏曲・A-moll】の演奏であった。1987年、旧ソビエト・グルジア(トビリシ)出身のこの若き女流ピアニストはウィーン国立アカデミーで研鑽を積み2003年のホロウィッツ国際コンクールにおいて特別賞、又、ルービンシュタイン国際ピアノコンクールでも上位入賞を果たし今や飛ぶ鳥を落とす勢いで世界を飛び回る人気と実力を兼ね備えた逸材である。そして今回の演奏はと言うと実にエネルギッシュでとても女性とは思えぬ程の分厚い音像と生き生きとした情熱の証しを一音一音に焼き付ける様にそしてまばゆい程のきらびやかな輝きを提示して見せたまさに秀演と言うに相応しいものであった。ヤルヴィの統率の下N響もこの情熱的な彼女の音楽的アプローチを見事に受け止め絶妙なバックアップを成し遂げて見せた。これは昨今中々聴く事が出来なかった音楽的風景をこの演奏がまさに余す事なく提示したひと時であったに相違ない。…が、しかしブニアティシヴィリの存在感は実はその音楽そのものに止まらない!。その美貌、これ見よがしとでも言うのだろうか?自らのボディーラインをくっきりとオーディエンスに見せ付けるが如くまさに挑発的なステージ衣装をまとい颯爽と登場、聴衆は一瞬目のやり場に困ってしまう様な状況を醸し出す。恐らく彼女はそれを意識して演出しているのだろう。深く前方へかぶる前髪を各フレーズの切れ目で何度も搔き上げる。実にセクシーなポージングだ。あれでは鍵盤がさぞ見えにくかろうと思う程…。最も全てを熟知して弾いている訳で鍵盤など見ずとも指は瞬時に各ポジションへと動いて行くに違いないが…。こうしてブニアティシヴィリの佇まいはある種官能的な風貌をあえて誇示し、それをも込みで自身の音楽的立ち位置をアピールする事をセオリーとしている言わば主張を自信を持って体現していると言う事なのだろう。下世話な話で恐縮だが美しいマスク、ナイスボディー、卓越したピアノ・テクニックそして大胆にして華麗な音楽表現の妙!。女流ピアニスト・カティア・ブニアティシヴィリを聴くと言う事は即ち彼女の演奏を通してピアノ音楽の世界に接すると言う事と今一つカティアと言う生身の女性を知る事も同時に意味するのだと我々は解釈しておくべきだろう。彼女の指からピアノを通して鳴るその音は明瞭でありダイナミズムに富み、華麗!。しかし時として奏でられる繊細な彩りも又、見逃せない。これは酔いしれる様な官能的な佇まいと決して離反する事のないところに彼女の音楽は確かに存在する事を意味する。これも又、事実である。どうか諸兄も最初は興味本位で結構!。ブニアティシヴィリの美貌目当てで、その映像に接しては如何か!。だが彼女がひとたびピアノを弾き始めると恐らくそんな興味本位は一瞬にして吹き飛ぶ筈だ。その壮大な音楽の世界観はピアニスト、ブニアティシヴィリのまさに崇高な芸術的空間の創造に他ならない。まだ29歳!大家と言われるほど熟達した演奏家ではないがその行く末は恐ろしい程…!いや大いに楽しみである。クラシックに普段余り触手が動かない方々も一度騙されたと思ってブニアティシヴィリの演奏をご視聴あれ…!。決して損はない。
(ルチアーナ筆。)
★YouTubeにはブニアティシヴィリの
映像が溢れている。
鑑賞には事欠かない。