国立歌劇場…?。 | ルチアーナの音楽時評・アラカルト。

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40年以上に及ぶ音楽家としての筆者の活動と
その経験から得た感動や自らの価値観に基づき
広く芸術、エンターテイメント等に独自の論評を
加えて参ります。現在小説 愛のセレナーデと、
クロス小説 ミューズの声を随時掲載中です。
こちらもご覧頂ければ幸いです。

東京初台に第二国立劇場が
開館して、さて何年になる
だろうか?。
運営面、資金面、新たな人材育成の
為の教育プログラム構築の
問題を含め意見、方針の対立の
表面化など諸々の課題を抱え
紆余曲折、新たな文化芸術の
発信地としての役割を期待していた
我々に取って、あくまで部外者で
ある立場を超え些かその様には
閉口させられる事しきりであった。
しかし、この数年来はしところの
ゴタゴタも一応収束したかの様
にも見えるし、表面的には着実な
運営がなされているやにも
思える。まあ~そもそも歌舞伎を
始め日本の古典芸能・芸術の
主戦場として存立していた
国立劇場に対してオペラや
外来演劇などの分野の上演を
主な役割として設立された
第二国立劇劇場であるから手探り
状態の運営を余儀無くされた事も
否めまいが、つまらぬゴタゴタが
運営の停滞を招いたその根底には
我が国の文化芸術に対する
文科省・文化庁即ち、国の政策的
アプローチが元々貧弱であるが故
諸問題を真摯に受け止め
発展的に解決に導く方向を
一時的にも滞わらせる結果と
なった事は明白だ。ジーエイトに
名を連ねるいわゆる先進国の中に
あって専用のオペラハウスが
現存しない国は日本ぐらいである。
確かに第二国立劇場は
オペラ劇場ではあるが専用の
オペラハウスではない。
本来ここを東京国立歌劇場と
するなら話はわかるが、そこは
やはりそうは行かない。
あくまでも国立の総合劇場なのだ。
我々声楽家にしてみれば甚だ
中途半端の感は否めない。
だがそこは百歩譲って、せめて
オーケストラだけは
常任団体として合唱団共々
配置してもらいたいものだ。
今、ここでのオペラ公演は
東京フィルが受け持つ事が
大半である様だが、それなら
それで良い。このオーケストラは
極めて水準の高い団体
なのだから…。そのまま
国立劇場管弦楽団へと再編格上げ
して楽員には公務員資格を与え
オーケストラのクォリティー
アップの為、更に優れた演奏技術
を修得する条件を課しては
如何なものか。私はそう心底思う。
第二国立劇場のこけら落とし、
忘れもしない。オペラ部門の
上演作品は
ヴェルディの歌劇「アイーダ」
であった。しかも演出は、かの
巨匠フランコ・ゼッフィレッリ。
しかしだ。
この世紀の一大イベントを
目前にしても尚、日本のマスコミは
それをけんもほろろ、
何一つ報道しなかった。
映画「ロミオとジュリエット」の
メガホンをとった事でも
知られるこの世界的映画監督にして
世界最高の演出家
フランコ・ゼッフィレッリは自国
イタリアなら新聞の一面を大々的に
飾るであろうこの
大変な国家的芸術プロジェクトを
全国紙が一切報道もしないと言う
驚くべき…っと言うより
恥ずべき現状に落胆、
本公演前にやるだけの事を
やり遂げるや日本と言う国に
呆れ果てさっさと帰国して
しまった。それを漏れ聞いた
あの時私は顔から火が
出るかと思う程日本人の
教養の無さを我が事の様に
恥じ入ったものだ。
先進国、近代国家などと言って
偉そうにした所で底の浅い
無教養をさらしても尚、それに
気が付きもせず…では
所詮お里が知れると言うもの!。
芸術を育むには金がかかる。
しかし、その投資の先に物質と
して形として目に見える成果は
得られない。芸術はそれに接し
享受された者の心に無形の印象
としてしか残り得ない。
空いた腹を満たしてもくれや
しない。そこにかける金…。
無駄金だ。しかし絶対欠く事が
出来ない必要な無駄金なのだ!。
第二国立劇場の発展的存続は
まさに、この必要な無駄金を
どれだけ確保出来るかに
かかっている。又、マスコミに
対してもその重要性を喚起する
必要がある。文化芸術のあり様は
真にその国の品位を内外に
如実に示す曇りのない、隠し様が
ない鏡となる。そこに
写し出されたもの。そこにこそ
そこで暮す人々の佇まいが
投影される。そう考えれば
決して疎かに出来やすまい。
国立劇場…。いや国立歌劇場が
私はどうしても欲しい。だが
しかしそれは永遠に夢のまた夢
なのだろうか!。あ~あ情けない
限りだ。
(ルチアーナ筆。)