爽やかな前夜のあの全ての光景が私の穏やかな目覚めを誘い、次の日は朝から体調も万全、…とは言え手の痺れは消えていないのだが何か今日は自身が歌い手である事、音楽家である事に今更ながら満足感を覚え、私は朝から妻を伴い地下の3部屋あるレッスンルームの内、一番広い第一レッスンルームへと入り例の通り妻は弾き語り、私は彼女の弾き語りに伴って幾つかのデュエットを共に歌うのであった。因みにこの部屋はオペラアンサンブルのリハにも充分使える延べ三十畳程の段差を付けたスペースを備えピアノはスタインウェイのフルコンサートを配している。モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」で歌われるジョバンニとツェルリーナの二重唱“お手をどうぞ”。プッチーニの歌劇「ボエーム」第一幕ラストのミミとロドルフォの二重唱、いずれをとっても古今のオペラ史上に輝く名作で私がこれまで幾多のオペラハウスで歌い演じて来たレパートリーだが今こうして妻を相手役に歌っていると今までの様に仕事としてある種の緊迫感を抱えてのステージ上のパフォーマンスから解放され真に音楽の楽しさ、美しさ、そして素晴らしさを実感出来る。病という大きな代償に対して天が最後のひととき私に与えてくれた幸せがこの時の流れなのだろうか…。後方からいきなり拍手が鳴り響いた。その音を引きずりながら「凄~い!!綺麗な声~!おじさんだけじゃなくて、おばさん!、ピアノも歌も両方上手いんじゃん…!スゲー!やばくない…。これ!!」サヤだ。現実が一気に私達を至福の世界から引きずり戻す。二人の演奏は中断、振り向き様に私は大声で…!いっ、いやその前に美しい!純真な面持ちに大きく輝く様な瞳、長く深く染み通る様な黒髪そして今日の服装…。サヤの姿はまぶしい程の輝きに満ちている。怒るタイミングを完全に外された思いだ。いや!何を言っている。こんな子供に心を翻弄されてどうする。「サヤちゃん!君にはまだ聞きたい事や言っておかなくてはならない事が山ほど有るんだ。さあ~来たまえ!」そう言って私はサヤの右腕をつかみ、部屋を出てエレベーターへ、そして一階談話室へ戻った。「何するの~!私、今変な事言った?離して!」離すものか!サヤと私の険悪な様に妻は慌てて「ムーンさん!冷静にね。身体に悪いから…ねぇ!あなた。」そう叫び、あい前後して談話室へと駆け付けて来た。朝食を先に済ませレッスンルームヘ入った私達を後から起きたサヤは食事を済ませた後、芳子さんに我々がここにいる事を聞き付け一人静かに部屋ヘ忍び込み片隅で又もや私達の共演を聴いていたのだ。それにしてもこの娘、こんなに可愛い容姿であるにも関わらず話す言葉がなんでこんなに下品なのだ…。彼女がかつて入居していた施設にも聞くだけの事は聞いたがその辺の教育までははっきり言ってなされていないのが現状の様だった。私(市澤)「サヤちゃん、良く聞いて欲しい…。いいかな。」サヤ「はい。」私は先程の興奮を抑え込み
この際この娘と関わる為に必要と思われる事、全て洗いざらい話尽くそうと心に決めて改めてサヤと対峙した。
傍らには妻がいる。全て妻との総意を踏まえての話だ。長丁場になるか?いやしかし、避けては通れない今この時は…!。(続く。)
ルチアーナ作