昔々あるところに、子供の好きな神様が… | 青い柳の樹のように  - counselor's blog -

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名古屋の老舗カウンセリングルーム「アンフィニ」の代表カウンセラーの青柳と申します。
少しでも多くの人にカウンセリングや心に関心を持つ機会になって頂ければという願いを込めたブログです。
皆様の生活に身近に感じられ「気づき」になれますよう。

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心理カウンセラーと心理学を身近にするブログです。
皆さん、本日の心の天気はいかがですか(^^

さて、今回は「礼」について。

皆さんは、誰かに対してよかれと思ったことが、

違う反応として返ってきたことがありますか?

 

「礼」という言葉は、"お礼"という感じで日常使いますが、

儒教でいうところの「仁・義・礼・智・信」では、

人間関係において、相手を敬う心をいいます。

 

『子供の好きな神様』という昔ばなしがあります。

 

昔々ある村の神社の境内では、子供たちがいつも遊んでいました。

ある日、子供が祠にある神様の石像がとても汚れていることに気づきます。

 

子供たちは川に石像を運び、

われぞわれぞと、取り合うように交代しながら、

石像を洗います。

 

そこに勘助じいさんが通りがかって、

賑やかに遊んでいるなぁと見ると、石像が子供の手を渡り歩いています。

「なんて罰当たりな!コラー!何しとる!!」

と、子供たちから石像を取り上げ、祠に戻しました。

 

しかし、罰が当たったのは、

子供たちではなく、勘助じいさんだったと神様は伝えたのです。

身体が動かなくなったじいさんでしたが、自分が罰当たりだったと自覚すると元に戻りました。

 

それ以来、境内で遊ぶ子供たちの邪魔を大人たちはしなかったそうな…。

私たちは、

いろいろなものごとの「一面」を切り取って見てしまいます。

 

切り取って見たことが、もしかしたら見当違いのことかもしれません。

この話から、良かれと思ったことは、

易々と行ってはいけないという教えなのでしょうか?

私が思うのは、誰もが神様の心を持ち、

そうであったとしても、自覚したじいさまの罰をすぐ解いたように、

伝え、相手の善意を汲めることが大切なのではないでしょうか。

 

相手にとって『礼』となることは、

関係性のなかからしか、わからないことがあります。

"怒る"よりも"赦す"という心は、レベルが高く崇高ですよね。虹



いつも有難うございます。

何かが許せない人はアンフィニへ!

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