写真と稽古 | takasanのブログ

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剣道というのは、その殆どが「稽古」で、「試合」はほんの僅かにあるだけです。

 

試合となると、対戦する相手は自分と同じくらいの腕前の剣士ですので、「勝った」「負けた」で一喜一憂するものです。まぁ、楽しいですよね。(笑)

 

一方、「稽古」となると、自分より圧倒的に、比べようもないほど格上の「師範」に稽古をつけてもらうため、毎度毎度「コテンパン」にやられます。

稽古が終わると、こちらは肩で息をしながら一歩も動けない状態になるのに、師範は涼しい顔のまま次の剣士を痛めつけるのです。

「逆立ちしても勝てない相手」との一方的な稽古が、一年、二年・・・延々と続くのですから、それはもう、へこたれます。(笑)

 

そのため、自分より弱い(と思っている)相手を馬鹿にしたり批判したり、といった文化は、少なくとも僕が通っていた道場にはありませんでした。

当たり前です。みんな等しく師範から「コテンパン」にやられる立場なのですから。

 

逆に、自分より強い(と思っている)相手に試合で勝っても、嬉しいのは勝ったその日だけです。また「稽古」でお互い負け続ける日々が続くのですから。

 

「師範と、それ以外」これが道場における剣士のランク付けです。

僕を含めた「それ以外」による競争は、結局「どんぐりの背比べ」という喜劇にしかなりません。(笑)

 

そうなると、未熟な承認欲求を満たすためには「師範を超える」以外にありません。

でもそれは「不可能」であり「無意味」です。たとえ腕前が師範を超えても、師範はその剣士の心に「超えられない師範」として残り続けるからです。

 

だから剣士は謙虚になり、成長する。

剣道が今なお生き残っている理由も、剣道の本質も、すべて師範との「稽古」にあるというのが、僕の理解です。

 

***

 

この話、写真の世界と対比しようと思って書き出しましたが、もう書くだけ野暮なのでやめておきます。

 

「逆立ちしても敵わない師範」を見つけ(故人でも良い)、その師範の写真とのみ「稽古」をする、それだけです。

 

 

Shinagawa, Tokyo, 2015

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