誰のために撮るのか (1) | takasanのブログ

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自慢じゃありませんが、実は僕、子供のころ習字が得意でした。

 

もちろん最初は無理やり教室に通わされたのですが、そのうち、その教室から出品した作品が賞を獲るようになりました。

子供は承認欲求の塊ですので、僕はもう鼻高々でした。(笑)

 

さて、小学校だか中学校だかでは、毎年冬休み明けに生徒が「書き初め」を提出し、国語の先生が選者となって「金賞」「銀賞」みたいな賞をつける習慣がありました。

当然僕は、毎年気合を入れて「己の習字」を書き初めにぶつけていましたが・・・

 

・・・毎年毎年、賞からは漏れてしまいました。

 

これは子供心に傷つきました。当時「習字」を見る目は肥えており、一層傷も深くなりました。

 

選者の先生が「この書き初めには勢いがある」とか「大胆な筆使いだ」みたいな選評を無邪気に述べるたびに、「自分との美意識の差」を痛感しました。

「勢いがあるだって!大胆だって!それはお前の態度と同じで『がさつ』っていうんだ!」素直だった少年はみるみる歪んでいきました。(笑)

 

やがて習字をやめ、判定の白黒がはっきりしている剣道に力を入れるようになりました。

 

・・・

 

こうして書いてみると、幼いとはいえ自分の考えがいかに稚拙だったかを実感します。

この「幼い自分」には、「目標」とその実現手段である「誰のために書くのか」という視点が完全に欠落していたのです。

 

「己の習字を提出する」のが目標なら、ひたすら自分のために書き、誰のどんな評価も気にする必要がありません。いや、気にもならないはずです。提出する事にも意義を感じなくなるでしょう。当然「金賞」は夢のまた夢です。

 

そうではなく、とにかく「金賞が欲しい」というのが目標なのであれば、「金賞を選ぶ」選者のために書くべきです。「自分の美意識」など捨て、徹底的に彼の好みに合わせるのです。

その代わり、書き上げた習字は「己の習字」からはかけ離れたものになります。

 

悲しいですが、美意識が決定的に違う「がさつ男」が選者である限り、二つの目標達成の両立はありません。

 

この事を「幼い自分」が知ったら、どんな書き初めを提出するのか、興味があります。(笑)

ちなみに、今の僕なら、書くだけ書いて提出は「意味ない」と拒否します。(言うだけ番長)

 

 

#本当は「フォトコン」について私見を書くつもりだったのですが、もう書くまでもありませんね。

#「フォトコン」に限らず、「カメラマンとモデルの関係」「プロとアマの違い」その他、多くのトピックにこの「誰のために撮るのか」が強く影響していると感じています。その辺、しつこくブログに書くと思います。

 

 

Haneda, Tokyo, 2015

Canon PowerShot S110