こんばんは。
本日もお越し下さいまして、ありがとうございます。
77歳でヨットで世界一周旅行を果たした斎藤実さんという方が、テレビでインタビューを受けていました。
今まで何回も世界一周を果たしていますが、今回は初めての西回りでの一周で、それに成功したそうです。
斎藤さん曰く、西回りは地球の自転と反対方向になるので、向かい風に真正面から向かうようなもので、それはそれは大変だったそうです。
「何でそんなに大変なことをやろうと思ったんですか?」とインタビュアー氏。
「やったことがなかったから」とあっけらかんと即答する斎藤さん。
あまりのあっけらかんさに、周りにいる方も思わず笑っていましたが、すごい言葉だと思いました。
やったことがないから、やめとこうとか、やる意味がないとか言い訳したりしてしまいがちです。
威張れたものではないですが、僕自身そうです。
でも「やったことがないから、やってみよう」と思う思い方、考え方もあるわけです。
(それが普通な人にとっては普通のことなのでしょうが。)
斎藤さんは、こうも言っています。
「夢を見るのは、タダです。
だからどんどん夢を見ましょう。
それでその夢が叶ったらすごい幸せだし、もうけものです。
もし夢が叶わなかったとしても、元がタダなんだから、全然損しません。
だからどんどん夢を見ましょう。」と。
夢の実現に向けて行動するのは、実際に時間やお金がかかったりするので「タダ」ではないように思うのですが、それすらも「タダ」だと思えてしまう気持ち、思いがあるということなのでしょう。
斎藤実さん、ありがとうございました!
<幸田先生語録>
何かを見て感情が揺れ動くということは、自分の中に何かブロックがあるということの表れです。
その対象に原因があるわけではありません。
なぜなら、それを見ても何も感じない人というのもいるからです。
こういうブロックを持っていますよ、というのを、その対象が教えてくれているだけなのです。
さっき、あるブログを拝見している時に、そのコメント欄の方のペンネームが、ある不動産業者さんのお名前と同じでした。
イヤな感情が走りました。
(ペンネームの方に対してではありません。念のため。)
その業者さんは、うちのアパートの居住者さんのことで、いろいろと言ってきた方なのです。
そのことについて自己観察しなさい、というメッセージだと思いました。
見て見ぬふりしてもダメだよ、と。
まずその不動産屋さんについて。
Aさん、としましょう。
出来事(そもそもの状態)
Aさんの事をあまりよく思っていない。
昔、母から「Aさんはいい加減で、よくない業者さんだから」というのをきいて、そのまま受け取っていた。
実は外見もあまり好きではない。
感情
嫌悪感
価値観
いい加減な人(業者さん)は嫌いだ、という価値観。
(外見で人を判断する、という価値観もある。)
これは解釈の範囲ですが、母からの言葉をそのまま受け取って、Aさんへの評価を決めている僕こそ「いい加減」なわけです。
Aさんがいい加減だったとしても、まさに僕の鏡として映し出してくれている、というわけです。
それはそれとして、感情を観ます。
何であの人のこと嫌いなんだろう?何で?
いい加減だから?
でもそれだって自分でしっかり確認したわけでもないし、いい加減な扱いされたわけでもない。
むしろ不動産の相談員なんかやってて、電話で質問して答えてくれたこともある。あとからAさんだとわかってびっくり、みたいな。
年末にはちょっとした粗品も持ってきてくれたりする。その時は嫌な感じはしないはず。
何で嫌いなの?
やっぱりそのアパートがらみのことで、「自分の言ってることが正しくて、おたくは間違っている、それを認めないなら裁判所でもどこでも出る」というような態度が嫌なのだ。
(おたくの方には権利がないのに、自分のところの敷地を勝手に使っている、というようなこと。)
外見も確かに好きではないが、それより、このことを頭に思い浮かべた時の方が、何倍も感情が揺れる。
感情は、怒りだ。
自分が正しいを振りかざし、何かというと裁判所だのを持ちだし、自分の主張だけを通してこちらをコントロールしようとする、それが腹立たしいのだ。
とここまで書いて、感情を離れて「鏡の法則」で言えば、「正義を振りかざして他人をコントロール」するのは、まさしく僕自身のことなのです。
仕事とかでの場面ならともかく、居酒屋さんでみんなで飲んでいて、テーブルをくっつけるか否か、なんてことでも、コントロールしたがります。
何か、無意識のうちに、それが使命、みたいな感じで仕切りたがってしまうのです。
自分でもよくわからない。あとで考えて、何であんなことで力説してたのかな?、という。
で、ここまで考えて、やっぱりAさんには何の問題もなく、ただ自分を映し出しているだけ、言い換えれば、僕が動いているそのままのように動くマリオネットとして動いてくれているだけのような気がしてきました。
回りくどくて恐縮ですが、だからやっぱり観るべきは自分の感情。
何でそんなにコントロールしたがるのか?
これを観させるために、Aさんが動いてくれていた(僕がAさんを動かしていた)と考えることができます。
コントロールしたい時の感情は?
今観てみたのですが、「恐怖」なんだろうなと思います。
何か言わないと、何か主張しないと自分の存在価値がない(なくなる)、それが怖い、という。
で、言ったからにはそれを何としても通して、自分の正当性やら価値を存在確立させよう、という。
だから必要以上に強く言ってしまい、それで反発を食らう。でもそこで負けてられないからと余計に強情になる。
自分だけでダメなら水戸黄門の印籠・錦の御旗をどこかから持ってきて正しさを主張する、というような。(Aさんで言うところの裁判所。)
たとえは違うかもわかりませんが、選挙に出たら何が何でも勝たねば、みたいな。
で、何でそんな恐怖を感じているのか?
自分で、無意識のうちに「存在するだけでは価値がない、何かを主張して、それを通させないと価値がない」と思っているからです。
自分で価値がないと決めつけて恐怖感をあおり。強情に言い張って、わざわざ買わなくてもいいような周囲の反発を買ってしまい、ますます価値のなさを助長してしまうようなことをやっているわけです。
自作自演です。
何で「自分は価値がない」と、無価値感を感じるのか?
どうして?
自分の悪いところばかり、足りないところばかりを見て(それも架空の理想像と比べたりして)自分を罰しているからです。そうして自分を認めていないからです。
自分と他人を行ったり来たりになりますが、当然その見方で他人を見ますから、やっぱり認めないし、下らない、バカにする、になる。
違うものだけれど、やっぱりそこにつながってきます。
で、やっぱり「自分を認める」という、結論としてはありきたりみたいなことになってくるわけですが、それでも自分を認められない、という場合は多いと思います。
普段何でもない時はそれなりに認められても、仕事とかに入ると途端に認められなくなる、とか。(自分を、ということです。)
で、思ったのは、昨日の「1から10まで」ということ。
自分のことを、1から10まで認められなかったとしても、3や4は認められるのでは?それでもいいのでは、と。
逆に、自分のことを認められなかったとしても、1から10まで認められないかと言ったら、そうでもないんじゃないですか?ということ。
(そうじゃなくちゃいけないということではないです、念のため。)
「1から10まで」を挟むことで、少しずつでも認められるようになるんじゃないかなあと思った次第です。
1から10まで恐れなくてもいいんじゃないのかなあ、とか。
で、それって、1でも10でもない、極端ではない、中庸(ちゅうよう)である、ほどほどである、という経路をたどって「いいかげんである(ちょうどいい湯かげん、の方の」ということかなと思いました。
僕自身が偏ってたから、「いいかげん」のAさんが嫌いだったのか、と思いました。
※そこ、鏡じゃないじゃん、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。
鏡は自分の一部を映し出してくれている、という考え方もありますし、また、僕自身もいい加減(いい意味でも悪い意味でも)なところも多々あるので、そこが映っている、とも考えられます。
長くなってしまいまして、どこに着陸したかわからないような感じになってしまい、恐縮です。
自分の無価値感を、また観ていこうと思います。
ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました。
あなた様にとって、今日も心も身体も豊かに過ごせる1日でありますよう、心よりお祈り申し上げます。
それでは、失礼致します。
追伸
今度の日曜日、12月4日に神奈川県川崎市で幸田先生の講演会があります。
宇宙のこと、生まれ変わりのこと、魂のこと・・・
その回ごとにテーマは違いますが、スピリチュアルが好きな方には楽しめるお話が聴けると思います。
質疑応答の時間もあり、そのテーマに関係のない個人的なことも質問できます。
勿論発言しなくても大丈夫です。
周りの方の質問やその答えを聴いているだけでも、自分の気になっていることとすごく深くリンクしていて、自分の気になっていたことが軽くなったりすることも多いです。
皆様のブログを読んで癒される、ヒントになる、というのと似ていると思います。
それがダイレクトなのでよりインパクトがあると思います。
もしお時間の都合がつきます方は、お越し下さい。
詳細・申込フォームはこちら 。
あなた様のご参加を、心よりお待ちしております。
ここまでお読みくださいましたあなた様、本当に本当に、ありがとうございました。