女子高生コンクリート詰め殺人事件 [TV:ニュースステーション] | ブログ

ブログ

個人的に興味のある事を書き連ねたMEMOブログ


ニュースステーション 2000年11月28日放送

「女子高生コンクリート詰め殺人事件 加害者とその親のその後」

(字幕) 1989年末

当時の女性アナ:…婦女暴行などの疑いで逮捕されていた少年2人が女子高校生を殺しコンクリート詰めにしていた事がわかり、今日夕方、殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕されました。捕まったのは東京足立区の18歳と17歳の少年2人で、昨日になって女子高生を殺していたことを供述し、江東区若洲の埋立地で遺体の入ったドラム缶が見つかったものです。調べによりますと、この少年らは今年1月初め足立区にある…

久米宏:今から12年前、東京足立区綾瀬で女子高生を40日間にわたって監禁して殺害する事件がおきました。いわゆる「女子高生コンクリート詰め殺人事件」です。
で、この事件では4人が刑事裁判で実刑判決、2人が少年院送致になりました。事件から12年経った今、我々の取材では懲役20年の刑を受けた主犯格を除いては全員が…5人ですね、社会に出てきています。今回、我々がインタビューできたのは、2人です。
まず少年院送致になった、この加害者(伊原)本人にインタビューできました。もう一人インタビューできたのは、この当時17歳だった少年D(渡邊)の母親です。我々がインタビューしたのは彼(伊原)、犯行当時16歳、12年経ってますから今28歳です。彼(伊原)とこの人物(渡邊)の母親にインタビューしました。この彼(伊原)への公園でのインタビューです。

(字幕) 1988年11月28日の事件

彼(伊原):A君(宮野)からあのー、ちょっと「面白いもんがあるから見にこいよ」みたいな感じで声かけられたんですよ。で、うちのオフクロとかが寝静まったのを見計らってから夜中に出て行って、C君(湊)の家にその日行ったんですけど…
で、部屋の中に入ったら、いつも全然見慣れない女の子が一人いて…段々雰囲気おかしくなってきて……

ナレーター:部屋には被害者の女性と6人の少年がいた。主犯格のA(宮野)、サブリーダー格のB(小倉)、自宅が監禁場所になったC(湊)、監視役のD(渡邊)、C(湊)の友人のE(中村)と彼(伊原)である。

彼(伊原):A君(宮野)だったか、B君(小倉)だったかどっちか忘れたんですけど「シンナー吸ってラリったふりしろ」って言われて…それからですね、急に…嫌がるあのー、彼女を押し倒したりとかして…。それで、B君(小倉)か誰かに「やれ」って言われたんですよ。「…いや、それはできませんよ」みたいな感じで一応、抵抗したんですけど「なんでできねえんだ」って感じで無理矢理それさせられて、もう腰まで押さえつけられて…後ろから…。

(字幕) D(渡邊)、E(中村)、彼(伊原)の3人が強姦した。

記者A:彼女はどんな様子でした?

彼(伊原):いや、もう……放心状態でしたね。始めはもう、とにかく凄い抵抗してたんですけど、抵抗すれば殴られる…。最終的にはもう…なんて言ったらいいんですかね、もう無抵抗状態になっちゃって…目もやっぱウツロでしたね。いまだにそれ(彼女の姿)は忘れないですよ。

(字幕) 1988年11月25日 午後8時半

ナレーター:事件の発端は3日前の11月25日、埼玉県三郷市に住む17歳の女子高生が、アルバイト先から帰る途中、それは起きた。スクーターに乗り、強姦する相手を探していたA(宮野)とC(湊)が彼女を見つけ突然、襲いかかった(彼女が襲われた現場が映る)
A(宮野)は「俺はヤクザの幹部だ」と脅し、ホテルに連れて行き彼女を強姦した(そのホテルの建物が映る)
そして、B(小倉)、C(湊)、D(渡邊)と待ち合わせをし、4人で足立区綾瀬のC(湊)の自宅に彼女を監禁した。これが事件現場となったC(湊)の自宅である(湊の自宅の映像流れる)。この2階の6畳の部屋に彼女は監禁された。11月28日の強姦事件以降、A(宮野)から彼女を見張るように命じられた彼(伊原)は、この部屋に4~5回行っている。

(字幕) 自宅はすでに取り壊されている。

彼(伊原):彼女が酷い仕打ちを受けてる場面も、イヤっていうほど見てるわけですよ。ライターの火であぶったりとか…火傷の跡とかがケロイド状になっちゃって……傷とかも治らないんですよね。見るたびに傷とか、そういうアザとかが増えるんで…

(字幕) 12月になると、A(宮野)たちは性的興味を失い、彼女を暴力の対象にした。

彼(伊原):(Aたちは)人を殴っているというより、表現良いか悪いかわからないですけど、それこそなんか、サンドバックとかを殴ってるみたいに……なんでそこまでできるのかなっていうくらい、もう「この野郎!この野郎!」という感じで…で、もう、殴る場所も関係ないんですよね。

ナレーター:彼女は3回ほど逃げようとするが、A(宮野)たちに見つかってしまう。そして「お前が逃げたら家族を殺す」と脅されていた。

(字幕) C(湊)の親は監禁に気がつかなかったというが、彼女と数回会っている。

記者A:殴られたりしている時の彼女は、どんな様子でしたか?

彼(伊原):もう、平謝りなんですよね「ごめんなさい、ごめんなさい」と…。謝るしかないんですよ、彼女にしてみれば…自分が悪いわけでもないのに謝ってるんです……必死に………泣きながら……。

(字幕) 殴られている間「頑張れ、頑張れ」と彼女は小さな声でつぶやいていたという。

(字幕) 助けを求める言葉

彼(伊原):彼女と2人っきりになることがあって…で、彼女のほうからあのー、聞かれたんですよ。「私このままどうなるの?」っていう感じで…自分はもう何て言っていいかわからなくて「上の人に、言われてやってこうやっているだけなので、俺に聞かれてもわからないから」ってそういう逃げ口上で言うしかなくて……助けて逃げ出させてあげることは、チャンスもあったし、すごく簡単なことだったんですよ。ただそれを自分がやったら、何されるかわからないっていうのがあったんで…やっぱりそれは出来なかったですよねえ。

(字幕) 1989年1月4日 最後の暴行

ナレーター:監禁から40日目、A(宮野)、B(小倉)、C(湊)、D(渡邊)の4人は彼女に壮絶なリンチを加える。2時間にわたり互いに競い合うように…動かなくなった彼女は、最後に「苦しいです」とつぶやいたという。

(字幕) その数時間後、彼女は死んだ

ナレーター:1月5日夜、A(宮野)、B(小倉)、C(湊)は、彼女の遺体をドラム缶に入れ、コンクリート詰めにして、埋立地に捨てた。

(字幕) 1989年3月29日 事件発覚

ナレーター:彼(伊原)は12月の暮れには、すでにA(宮野)達と関係を断ち、綾瀬を離れていた。事件の結末はテレビのニュースで知ったという(Cの自宅の家宅捜査の映像映る 1989年3月30日)

ナレーター:4人が逮捕された後、彼(伊原)もまた、婦女暴行の疑いで警察から取り調べを受ける。

彼(伊原):発見された時の写真をこう…出されたんですよ。で、頭つかまれてこう、写真をグッと顔近づけさせられて「やったんだろ!やったんだろ!」と、ずっと繰り返し責められて…で、やっぱ辛くて写真なんか見れないんですよね。すごい姿で写ってましたから……涙ボロボロ出てきちゃって………。

ナレーター:家庭裁判所での審判の結果、彼(伊原)は半年間の少年院送致になった。

ナレーター:北アルプスの麓、長野県穂高町に初等中等少年院、有明高原寮はある。ここは短期間で更生が可能とされる少年を収容している。鉄格子や鍵はなく全国でも唯一の完全な開放施設だ。彼(伊原)は、ここで半年間を過ごすことになる。

(字幕) 1989年5月 入院

彼(伊原):最初の1日、2日っていうのはあのー、どうしてもショックのほうが大きくて、自分がその起こしてきた、やってしまった事件とかそういうことでもう…食事もホントとれなくて……。

ナレーター:彼(伊原)はまず事件のことをノートに書き記し、自分を見つめ直す事から始めた。そして都合の悪いことから逃げる自分の性格が被害者の彼女を助けることができなかったことを思い知ったという。

彼(伊原):自分で自分に腹が立つっていうか…少なくとも誰も死なないで済む可能性だってあったわけじゃないですか…。だから、もうちょっとやっぱり、彼女の立場になって本気で考えてあげれたら…もうちょっと違う形があったんじゃないかっていう…そうですね、悔やんでも悔やみきれないですけど……。

(字幕) 1989年秋 仮退院

ナレーター:刑事裁判で実刑判決を受けた少年が収容されている川越少年刑務所(埼玉 川越市)。ここに彼女の監視役だったD(渡邊)が服役する。D(渡邊)は11月の強姦に加わり、最後の暴行では彼女を鉄球で何度も殴るなどしている。

(字幕) 監禁・強姦・殺人などで懲役5~7年の不定期刑

(渡邊の部屋にて)
記者B:やってしまった事の詳しい経緯というのはご存知ですか?

D(渡邊)の母(当時55歳):ええ、だいたいですがあのー、裁判を全部傍聴しましたので、…知っております。………なんとかね、…助け出すことが出来なかったのだろうかとね、…すごい悔やまれるばかりですよね…。

(字幕) 1996年11月 D(渡邊)が仮出獄

D(渡邊)の母:最初はちょっと、規律正しくしてたんですよね。私も息子の部屋に入って、食事したり何かしたりしてたんですけど…そのうちなんかわたしが「うるさい」ってことで、部屋に入れないようになったんですけど…。

記者B:それは今でも?

D(渡邊)の母:今でもそうですね。

ナレーター:小さなアパートでの二人暮らし。D(渡邊)はふすまに鍵をかけ、6畳の部屋に閉じこもっているという。母親は3畳の台所で寝起きをし親子の会話はほとんどない。55歳になる母親は事件後、仕事を3回変わった。親戚や近所とも、ほとんど付き合いはなく人目を避けるように暮らしている。

(字幕) 夫とはD(渡邊)が5歳の頃に離婚

D(渡邊)の母:どんな形でも、(息子に)生きていてもらいたいというのが親ですから…。あれは一生ですね、私達の体から取れることはもう、それはないですね(事件)
前の自分達に戻ることは、それは出来ないですね。

記者B:被害者の遺族の方に会って謝罪したことはありますか?

D(渡邊)の母:いや、もう…それは、ないです……皆さん(遺族側)が拒否されてますからね。

ナレーター:被害者の遺族は、加害者側からの謝罪や面会を一切拒否している(被害者の葬儀の映像写る 1989年4月2日)


被害者の父の証言(1990年4月9日 公判)
「親の気持ちとしては、これだけ残虐な殺され方をして、返せといっても死んでしまったわけですから、償いは一生かかっても、やってもらいたいと思います。」

記者B:どうすれば償うことが出来ると思いますか?

D(渡邊)の母:子供が犯した罪は、やはり親の罪ですので……出来る事なら私達も死んでお詫びしたいですけど……まあ生きていてですね……お詫びしながらですね……。

(字幕) 事件や被害者について、息子と会話は一切ないという

記者B:親と子が、向き合うことは必要だと思うんですけど…。

D(渡邊)の母:そうですね。それはちょっと……うちの場合はまだですね、ちょっと、出来ないですね。お互いが殻に閉じこもってますからね。どのように話していったらいいか……もしそれが、失敗すればもっとひどいことにね、なっていく恐れがあるので……。

記者B:いつまでも、こういう状態ではいられないわけですよね?

D(渡邊)の母:まあ、いられないけども、私が生きてる間は、私があれ(面倒)しますけども、私のあとは今度は(息子の)お姉ちゃんが引き継いで、やっていくしかないので……

記者B:今でも、息子さんをずっと抱えて生きていくってことなんですか?

D(渡邊)の母:そうですね。

彼(伊原):(少年院を出て)一番最初にしたかったのがあのー、被害者の……彼女の供養。謝ってどうのこうのって問題じゃないんですけど、やっぱあれだけねえ、あのー、助けを求めたりしていた部分もあったのに、それに対して何も出来なかったので…。

ナレーター:彼(伊原)は遺族に謝罪しようとしたが、周りの反対に合い、諦めたという。その後の生活は職を転々とするなど、順調なものではなかった。中学時代の友人と連絡を断ち、未だに仕事以外で綾瀬に足を踏み入れることはない。

(字幕) 現在は建築会社で働く

(字幕) 1994年に結婚 事件のことをすべて話したという

彼(伊原):最初はやっぱりビックリして(今の嫁が)、何日か会わない日が続いたんですけど……彼女も悩んだところがあったんでしょうけど……今の自分を見ててくれる部分もあって……。

(字幕) そして、子供が生まれた

彼(伊原):かなり、変わりましたね。仮にやっぱり自分がそういう…被害者の遺族の人達と同じようなあのー、立場に立ったら、もう……どうしていいかも分からないし、もういたたまれないどころの騒ぎじゃないと思うんですよね。それぐらい(自分の)子供をやっぱ愛しているっていうのがあるんで…。今、改めてそういう風な親の立場になって考えてみて、ホント遺族の人は……悔やんでも悔やみきれないし、もう悲しいとか……そういう次元じゃなかったと思うんですよね。本当にあのー、大変な思いをしたんだろうなっていう……まあ遺族の人たちとか……したんだろうなっていうより、今でもしてるんだろうなっていう……そういう気持ちはすごいありますね。

記者A:罪を償うことって、どういうことだと思いますか?

彼(伊原):一番恐いのはやっぱり忘れちゃったり、薄れていって……またそういう時の気持ちが、忘れちゃったりしたら、結局また同じことだと思うんですよね。だから……一番大切なのはやっぱり……忘れないということは、イコールやっぱりあのー、ずーっと悩んでいくことだと思うんですよ。これ多分、答えの出ない悩みだと思うんで、どんなに悩んでも。だけど、その悩んでくってことが、自分にとって科せられた……まあある意味、罰だと……。

記者A:そういう過去っていうのは今後…

彼(伊原):それは、子供にはちゃんと話そうと思う。まあ、どういう反応されるかわからないですけど、やっぱり自分の一応…そういう面倒な事とか、嫌な事から逃れようとした結果で、いろいろな今まで事件とか、あのー、悪い事を引き起こした部分もあるので……まあ、わかってもらえるかどうかはわかんないですけど(子供に)分かる時がきたら、話そうと思います。

(当時の遺体遺棄現場の映像が写る。現在の様子も写る。現在は大きなビルが建っている)


被害者の父の弁
「私の気持ちは当時と変わらない。加害者に対する感情も変わらない。」

久米宏:今回の放送にあたりまして、殺された女子高生のお父様と、電話でお話するチャンスがありました。その際、被害者の父親は「今更、事件を掘り返してほしくない。出来れば放送も止めていただきたい」というお話でした。しかし、ご遺族に特集の主旨をご説明して、御覧のとおり、放送致しました。ご了解頂きたいと思います。
………まあ、人間っていうのは、なんて愚かで悲しいことをするんだろう、というのがまず………法律で罰を重くしようと軽くしようと、そういうのは関係なくて、なんでこんなことやってしまうんでしょうねえ。

朝日新聞編集委員 清水建宇(たてお)氏:この事件は、私が警視庁キャップになってすぐ起きた事件なんですよね。で、おそらくこんな酷い事件はその後、起きないだろうなって思って……その後起きてないと思いますね、これほど酷い事件は。で、今のビデオ見てて、犯罪被害者の会の武るり子さんが、ここでおっしゃったことを思い出すんですが、被害者は、心から罪を反省して詫びてくれることを望んでいるんだと…そうおっしゃってましたけど、じゃあ、どうしたらそれが出来るのかっていうと、こうすれば出来ますっていう手引書はないし、何年間かかければそれが出来ますっていうものでもないし、やっぱり今の彼(伊原)が言ってたように、一生答えの出ない難しい問題を背負っていくしかないんでしょうねえ。

久米宏:罰が重い、軽いに関係なく、自分も含めて家族ももう取り返しのつかない事に
なってしまうんですよね。それを是非、若い方にご理解頂きたいと思います。ニュースを
続けます。