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報道ステーション 2004年7月28日放送

女子高生コンクリ詰め殺人事件「再犯」の加害者と母親

古館:こんばんは。皆さん、15年前のある事件を思い出してください。そして考えてみてください。ちょうど元号が平成にかわってまもない1989年の1月、東京江東区の埋め立て地で一人の女子高校生の遺体が発 見されました。冷たい海風の吹くこの場所で、その女子高生はなんとコンクリートに固められていました。世に言う女子高生コンクリート詰め殺人事件です。
なんと被害者は、犯人の家に40日間にも及んで監禁され、筆舌に尽くしがたい蹂躙の末に殺害されました。実刑判決を受けたのは、当時16歳から18歳だった少年4人です。そのうち、当時17歳だった準主犯格の少年は8年間服役し、5年前に出所しました。
しかし今年の5月です。33歳になっていたその少年-男-はまた別な事件を起こしてしまいました。今日その初公判が開かれました。その男はどうして、また再び犯罪を犯してしまったのでしょうか。我々のテレビカメラの前でその男の母親が語りました。長いVTRになりますが、どうか最後までご覧ください。なお、その男の名前は、未成年時の犯罪を扱うため匿名とさせていただきます。

ナレーション(女):午前10時、東京地裁には朝から傍聴券を求める人が大 勢詰めかけた。

キャプション:傍聴席23席に126人が並ぶ

ナレーション(女):知人の男性を監禁し怪我をさせたとして、逮捕監禁致傷の罪に問われた被告の初公判。頭を短く刈り上げた男は、法廷に入ると一度傍聴席を見回した。そして監禁はしておらず話をしていただけだとして起訴事実を一部否認した。男は1989年に東京都足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件で有罪判決を受けた準主犯格の少年だった。

ナレーション:あれから15年加害者の実の母親がカメラの前で語った。コンクリート詰め殺人事件のことを。出所後の生活、再び罪を犯した息子について。

加害者母親(58):私にごめんなさいって一言・・・言っただけです。自分が出たら(出所したら)(母親が)仕事をしなくてもいいように力仕事でも何でもするから、悪かった。顔は申し訳ない顔をしていました。私の顔を見るなり。

ナレーション:拘置所から届いた加害者の手紙。男が自ら語った事件とは。


ナレーション:5月19日午前2時、東京足立区に住む男性が自宅に戻った時だった。一人の男が車から降りてきていきなり殴りかかった。

被害者(27歳):「女取っただろう、女知ってんだろう、隠してるんだろう、やくざなめんなよ」って。でー、何十発か殴られて…

ナレーション:男性は男の車のトランクに詰めこまれた。

キャプション:約40分間走り回る。

ナレーション:車が向かった先は埼玉県三郷市のあるスナック。

被害者(27歳):そこでは、もう誰もみていないわけで、何十発と殴られ続けて、もう「一人殺そうが二人殺そうが一緒なんだ」と言われた。人を殺す顔ってこんな顔なんだなって。

ナレーション:4時間後に解放された男性はその足で警察に駆け込んだ。およそ2週間後男が逮捕される。

キャプション:6月4日逮捕監禁致傷容疑で逮捕

ナレーション:二人は知り合いで、男は被害者の男性にこう語っていたという。

被害者(27歳):一方的に何か話しし始めて、その綾瀬の事件を話し始めた。俺はすごいだろうって、自慢するような口調で。


ナレーション:綾瀬の事件。それは女子高生コンクリート詰め殺人事件のことだった。1989年1月東京江東区(江東区若洲・遺体発見現場のキャプション)の埋め立て地でコンクリート詰めされた女性の遺体が発見される。被害者は埼玉県三郷市に住む17歳の女子高校生だった。逮捕されたのは当時16歳から18歳の少年(当時の映像・変更現場などがながれる)。強姦目的で通りがかりの女子高生を連れ去り、40日
にわたり足立区綾瀬の自宅に監禁し殺したのだった。

キャプション:
主犯格A(18) 懲役20年
準主犯格B(17) 懲役5~10年
C(16) 懲役5~9年
D(17) 懲役5~7年

ナレーション:裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。準主犯格の少年は最終意見陳述で涙ながらにこう述べた。「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい(キャプションに同様の文面)」

キャプション:監禁現場(犯行現場の画像)

ナレーション:少年達はここで壮絶な暴行を加えていた。連日に及ぶ強姦、顔面や体を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事をとらせない。そして、遺体をドラム缶にいれて捨てたのだった。

スタッフ:謝罪とかですね、償いの気持ちとかっていうのは?

加害者母親(58):住所も…(被害者の遺族が)引っ越されてしまって。だから、気持ちとしてはいつも忘れることはできないけど、何もできない状態。自分の中では一生背負っていかなきゃならない

ナレーション:更生を誓った息子が15年後再び罪を犯した。

加害者母親(58):ショックでした。なぜそんなことをやったのかなって。今更いい年なのに、何でそういうことをしたんだろうっていうふうに感じました。

ナレーション:父親は3歳の時に愛人を作って家を出ていった。母親は二人の子供を育てるために夜の仕事に就く。家族そろって食卓を囲んだ記憶はないという。

加害者母親(58):確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育つ子はよく育っているかもしれないです。でも、あの子には父親が必要だったんじゃないかなと思ってます。

キャプション:奈良少年刑務所(画像も)

ナレーション:少年は奈良にある少年刑務所に収容された。更生に重点を置く少年院と違い、少年刑務所は刑罰を与える場である。母親が差し入れたドストエフスキーを読んだり、被害者の冥福を祈り写経をしていたという。


キャプション:男が装置された滋賀刑務所
       1999年8月3日出所

ナレーション:その後、成人の刑務所に移され28歳の時に出所。

加害者母親(58):(息子は)迎えに来ているとは思わなかったみたいですけど。もう、子供みたいな感じで、(事件)前に戻ったような感じで。もう、はしゃいで出てきたっていう感じに……見えましたけど。

キャプション:首都圏の様々な会社に派遣される

ナレーション:出所してから半年後、男は弁護士の紹介でコンピュータ関係の派遣の仕事をするようになる。更生に向けたスタートは順調かに見えた。

加害者母親(58):出る(出所する)前からいつ帰ってくるんだって、その、社長さんが待っててくださって。コンピュータの会社に行っている時もすごいまじめに行っていました。もう早くねて、自分は行かなきゃいけない。2時間くらいかかるんですよ。コンピューターの会社の仕事にいくのに。大体遠い所が多いものですから。そうすると、本当に遅刻しないでまじめに行っていた。やっぱし(刑務所で)ならってきたことでは自分が(能力が)足りなくて、自分なりに勉強していました。本を買ってきて。

ナレーション:だが、母親にとってある不安が常につきまとっていた。

加害者母親(58):気というか……張り巡らしました。だから、あの新聞か何かのニュースを見ると、背格好、服装……居ないとすごい心配でした。他の事件でも疑ってかかっちゃうこともあります。

スタッフ:それは息子さんがやったんじゃないかと?

加害者母親(58):そうですね。そういう風に思ってみる時もあります。

ナレーション:4年前に母親を取材したときのノート。出所から1年、このときすでに母親は不安を漏らしていた。


ノートに書かれた文章:
また事件をほじくったら元のもくあみにな
また何かやるかもしれない


加害者母親(58):事件ついても話はしていないです。お互いが暗黙の内の……

スタッフ:それはどうしてですか?

加害者母親(58):息子にとっても自分の心の中で思っていることだと思いますし。私の中でも心で思っていることもでもあって。言ってほじくり出して、まともな会話になる時もあるかもしれないけど、やっぱり自分の言われたく時ってありますよね。

ナレーション:だが本人にとって事件は心の片隅にあり続けたようだ。

加害者母親(58):自分の事件の本を読んだりしてましたから。でなにか、あのぉ、ビデオが出たのも見てますね。その事件のビデオが。ビデオショップから借りてきて、で、「内容は違うよ」って一言いっていましたけど。

ナレーション:男は歌舞伎町の店で働いていた年上の中国人女性と結婚した。しかし、2年あまりで破局。再び実家に戻る。

加害者母親(58):彼女と別れてかな「結婚して子供でも作って普通の生活をしたら」って言ったら「事件の子供って言われるから無理でしょう」って本人は言ってました。

スタッフ:それに対してお母さんはどう返したんですか?

加害者母親(58)それっきり何も言えませんでした。

ナレーション:熱心に打ち込んでいた仕事も、あることが理由で辞めてしまう。出所後男と付き合いのあった弁護士はこう話す。

キャプション:女子高生コンクリ詰め事件での男の弁護人

伊藤芳朗弁護士:やはり被害妄想だったかなと思います。といいますのは、そのー、本当は職場の人たちは彼実状を誰も知らないはずなのに、自分のこと(事件)を知っているから、自分につらくあたるんだというようなことを言って人間関係がギクシャクしてきたんですね。

キャプション:刑務所での拘禁反応が被害妄想の原因だった

ナレーション:10年に及ぶ刑務所生活で男には拘禁反応による被害妄想が現れていた。

伊藤芳朗弁護士:刑務所の中でキチンとした治療は受けさせてもらえませんでした。


ナレーション:2番目の職場を見つけるも給料の未払いというトラブルが起きる。その時、ある人物との出会いがきっかけで男の人生は、再び大きくかわっていったと母親はいう。

加害者母親(58):S氏はヤクザだったんで、あたりのいい人だったんで、最初くっついて行っちゃいまして。

ナレーション:給料の未払いを聞いた母親が知り合いのH氏に相談。そのH氏が連れてきたのが山口組系暴力団組長のS氏だった。男は次第にそのS氏と付き合いを深めていく。


       相談
   母親------------->H氏

付き合い
   男<------------>山口組系3次団体組長S氏

スタッフ:息子さんを止めようとはしなかったんですか?

加害者母親(58):私が止めても難しいなっていう、本人の判断に任せようという気持ちでいました。

スタッフ:事件のことについてはその人は知っていたのですか?

加害者母親(58):(息子)本人が言ったみたいです。本人が言ったところ連れ歩いているときに「こいつはコンクリの人殺したやつだよ」ってみんなに言いふらしていたらいしです。それは本人がいってました。どこに飲みに行っても、そういう言い方をすると。

スタッフ:本人は嫌そうな感じでしたか?

加害者母親(58):はい。誰もいないから誘われるといってたみたいです。

スタッフ:誰もいないっていうのは?

母親(58):友達が誰もいないから。

スタッフ:友達っていうのはできなかったんですか?

母親(58):出来なかったです。

キャプション:
今年5月再び事件を起こす
出所から4年9ヶ月後のことだった---

母親(58):これは息子からきた手紙です。小菅(東京拘置所)に入ってから息子から来た手紙なんです。

ナレーション:15年前世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件。再び罪を犯した男から母親あてに手紙が届いた。

手紙の内容:
前略、面会や差し入れありがとう。今回のことは本当に申し訳ないと思っています。他人の責任で自分の仕事ができなくなる悔しさは私も十分にわかる。事件のことも考えている。度が過ぎたことを後悔している。

ナレーション:男によれば、暴力団組長S氏の正式な組員になったのは去年の12月だという。その後S氏が男に上納金を要求したことに反発。今年5月8日S氏を殴り組を抜けたとしている。8日後の5月16日ある事件が起きる。浅草の三社祭で暴力団組長のS氏が喧嘩に巻き込まれた。そのとき男は近くにいたが、組から抜けていたこともあり、S氏を助けるとはなかったという。その際、今回の事件の被害者に男はこう言われたという。

キャプション:
「行けなかったじゃないですか」

ナレーション:行けなかったじゃないですか。つまり怖じ気づいたと揶揄されたというのだ。

男の手紙:
今回の被害者は(匿名)が面倒をみていた若い衆なんだけど、テキ屋だな。被害届けを出したくらいから花屋の店員になっているらしい。

画面:傷の跡を見せる被害者

ナレーション:男は被害者の言葉がきっかけで思わず暴力を振るったとしている。しかし、被害者も雇い主も男の主張を否定している。

被害者(27):なぜ行けなかったのですかとか、それはないですよ。だから、その見ていたとかという話も、自分はその子供たちにラムネを分けてあげたりとか、ジュースを配ってあげたりだとか、そういうことをしていたので、見てないんですよね。自分は花屋だったんで。なんで、自分までヤクザ扱いするんですかって。

ナレーション:男は面会に訪れた母親に対して訴えた。

加害者母親(58):「一人殺すも二人殺すも一緒だって」ってそんなことを言ったの?といったら「言ってないよ」って言っていました。

ナレーション:事件発覚後、母は自宅を出て知り合いの家を転々としている。

スタッフ:何が足りなかったと思いますか?

加害者母親(58):事件のことに触れなかったことが、私はそれが息子に対して……わかっていることだと思ったんですが、それがまだわかりきってなかったのかなと感じます。

スタッフ:わかりきってないというのは?

加害者母親(58):自分の感情にふまえて自分を忘れちゃっていることを教えてあげないといけないなと。

スタッフ:どうすれば出来ますか?

加害者母親(58):どいうふう風にしたらわかる……どいうふう風に言ったらいいんでしょう……。

スタッフ:亡くなられた被害者の方、あるいは遺族の立場になって考えてみたらどうですか?

加害者母親(58):遺族だったら「死んでもらいたい」というのが、それっきり思わないじゃないですか。その子が帰ってくるわけじゃないですから。

スタッフ:また同じ被害者がでてきたり、あるいはまた事件を繰り返したりしたことに対して、遺族がとても悲しんでいるとは考えないですか?

加害者母親(58):つらく思ってらっしゃると思います。これから事件を起こさないように、自分を戒めていかなきゃならない、ではないかと思っています。

スタッフ:できますか?

加害者母親(58):やって…行こうと思ってます。

スタッフ:被害者の遺族に対して詫びるとしたらどういった言葉がありますか?

加害者母親(58):ごめんなさいの一言です(むせび泣く?)


古館:この男を本気で更生させようと考えた人間がいただろうかと思います。中途半端な助けでは更生などできないと思います。加藤さん、あのー、再犯、出所して再び犯罪を犯してしまうというケースですが、かなり多いというふうに感じるんですが。

加藤:そうですね。それで少年法の見直し論議も活発になってますよね。その論点の一つが加害者の人権重視、その一方で被害者の事件はどうなっているのかというのがありますよね。

古館:はい

加藤:だから被害者側から、次の被害者を作らないでくれという切実な声もでてますよね。


古館:(おおきく頷く)ただ、あのー。もう一方で、この更生施設の問題。はたして本当の更生できる確率がどのくらいあるかということも問題ですね。

加藤:そうですね。いまVTRみてて二つ、僕考えたんですけどね。一つは、罪が重かったから少年刑務所行きましたよね。少年院なんかに比べると教育とか更生という面よりも、やっぱり刑罰としての服役が重視されるところですよね。今後あのーやっぱり、少年刑務所でも更生プログラムを強化充実する必要があるんじゃないかということが一つ。それと、更生で成果をあげた後にも問題がある。だから、戻っていくそこの環境がどうなのかっていうのが、ものすごい重要だと思うんですよね。

古館:現実的にはよく言われるように、とにかく刑が終わって服したらすぐに出ていってもらう。次なる犯罪者が入ってくるから。刑務所は満杯だ。よく耳にしますよね。そういう話をね。そして、もう一つ思うことは親と子供が逃げずに本当に向き合うということ。これが次に大切で難しいんだとということも考えました。いったんコマーシャルです。




引用先

ニュースステーション 2000年11月28日放送

「女子高生コンクリート詰め殺人事件 加害者とその親のその後」

(字幕) 1989年末

当時の女性アナ:…婦女暴行などの疑いで逮捕されていた少年2人が女子高校生を殺しコンクリート詰めにしていた事がわかり、今日夕方、殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕されました。捕まったのは東京足立区の18歳と17歳の少年2人で、昨日になって女子高生を殺していたことを供述し、江東区若洲の埋立地で遺体の入ったドラム缶が見つかったものです。調べによりますと、この少年らは今年1月初め足立区にある…

久米宏:今から12年前、東京足立区綾瀬で女子高生を40日間にわたって監禁して殺害する事件がおきました。いわゆる「女子高生コンクリート詰め殺人事件」です。
で、この事件では4人が刑事裁判で実刑判決、2人が少年院送致になりました。事件から12年経った今、我々の取材では懲役20年の刑を受けた主犯格を除いては全員が…5人ですね、社会に出てきています。今回、我々がインタビューできたのは、2人です。
まず少年院送致になった、この加害者(伊原)本人にインタビューできました。もう一人インタビューできたのは、この当時17歳だった少年D(渡邊)の母親です。我々がインタビューしたのは彼(伊原)、犯行当時16歳、12年経ってますから今28歳です。彼(伊原)とこの人物(渡邊)の母親にインタビューしました。この彼(伊原)への公園でのインタビューです。

(字幕) 1988年11月28日の事件

彼(伊原):A君(宮野)からあのー、ちょっと「面白いもんがあるから見にこいよ」みたいな感じで声かけられたんですよ。で、うちのオフクロとかが寝静まったのを見計らってから夜中に出て行って、C君(湊)の家にその日行ったんですけど…
で、部屋の中に入ったら、いつも全然見慣れない女の子が一人いて…段々雰囲気おかしくなってきて……

ナレーター:部屋には被害者の女性と6人の少年がいた。主犯格のA(宮野)、サブリーダー格のB(小倉)、自宅が監禁場所になったC(湊)、監視役のD(渡邊)、C(湊)の友人のE(中村)と彼(伊原)である。

彼(伊原):A君(宮野)だったか、B君(小倉)だったかどっちか忘れたんですけど「シンナー吸ってラリったふりしろ」って言われて…それからですね、急に…嫌がるあのー、彼女を押し倒したりとかして…。それで、B君(小倉)か誰かに「やれ」って言われたんですよ。「…いや、それはできませんよ」みたいな感じで一応、抵抗したんですけど「なんでできねえんだ」って感じで無理矢理それさせられて、もう腰まで押さえつけられて…後ろから…。

(字幕) D(渡邊)、E(中村)、彼(伊原)の3人が強姦した。

記者A:彼女はどんな様子でした?

彼(伊原):いや、もう……放心状態でしたね。始めはもう、とにかく凄い抵抗してたんですけど、抵抗すれば殴られる…。最終的にはもう…なんて言ったらいいんですかね、もう無抵抗状態になっちゃって…目もやっぱウツロでしたね。いまだにそれ(彼女の姿)は忘れないですよ。

(字幕) 1988年11月25日 午後8時半

ナレーター:事件の発端は3日前の11月25日、埼玉県三郷市に住む17歳の女子高生が、アルバイト先から帰る途中、それは起きた。スクーターに乗り、強姦する相手を探していたA(宮野)とC(湊)が彼女を見つけ突然、襲いかかった(彼女が襲われた現場が映る)
A(宮野)は「俺はヤクザの幹部だ」と脅し、ホテルに連れて行き彼女を強姦した(そのホテルの建物が映る)
そして、B(小倉)、C(湊)、D(渡邊)と待ち合わせをし、4人で足立区綾瀬のC(湊)の自宅に彼女を監禁した。これが事件現場となったC(湊)の自宅である(湊の自宅の映像流れる)。この2階の6畳の部屋に彼女は監禁された。11月28日の強姦事件以降、A(宮野)から彼女を見張るように命じられた彼(伊原)は、この部屋に4~5回行っている。

(字幕) 自宅はすでに取り壊されている。

彼(伊原):彼女が酷い仕打ちを受けてる場面も、イヤっていうほど見てるわけですよ。ライターの火であぶったりとか…火傷の跡とかがケロイド状になっちゃって……傷とかも治らないんですよね。見るたびに傷とか、そういうアザとかが増えるんで…

(字幕) 12月になると、A(宮野)たちは性的興味を失い、彼女を暴力の対象にした。

彼(伊原):(Aたちは)人を殴っているというより、表現良いか悪いかわからないですけど、それこそなんか、サンドバックとかを殴ってるみたいに……なんでそこまでできるのかなっていうくらい、もう「この野郎!この野郎!」という感じで…で、もう、殴る場所も関係ないんですよね。

ナレーター:彼女は3回ほど逃げようとするが、A(宮野)たちに見つかってしまう。そして「お前が逃げたら家族を殺す」と脅されていた。

(字幕) C(湊)の親は監禁に気がつかなかったというが、彼女と数回会っている。

記者A:殴られたりしている時の彼女は、どんな様子でしたか?

彼(伊原):もう、平謝りなんですよね「ごめんなさい、ごめんなさい」と…。謝るしかないんですよ、彼女にしてみれば…自分が悪いわけでもないのに謝ってるんです……必死に………泣きながら……。

(字幕) 殴られている間「頑張れ、頑張れ」と彼女は小さな声でつぶやいていたという。

(字幕) 助けを求める言葉

彼(伊原):彼女と2人っきりになることがあって…で、彼女のほうからあのー、聞かれたんですよ。「私このままどうなるの?」っていう感じで…自分はもう何て言っていいかわからなくて「上の人に、言われてやってこうやっているだけなので、俺に聞かれてもわからないから」ってそういう逃げ口上で言うしかなくて……助けて逃げ出させてあげることは、チャンスもあったし、すごく簡単なことだったんですよ。ただそれを自分がやったら、何されるかわからないっていうのがあったんで…やっぱりそれは出来なかったですよねえ。

(字幕) 1989年1月4日 最後の暴行

ナレーター:監禁から40日目、A(宮野)、B(小倉)、C(湊)、D(渡邊)の4人は彼女に壮絶なリンチを加える。2時間にわたり互いに競い合うように…動かなくなった彼女は、最後に「苦しいです」とつぶやいたという。

(字幕) その数時間後、彼女は死んだ

ナレーター:1月5日夜、A(宮野)、B(小倉)、C(湊)は、彼女の遺体をドラム缶に入れ、コンクリート詰めにして、埋立地に捨てた。

(字幕) 1989年3月29日 事件発覚

ナレーター:彼(伊原)は12月の暮れには、すでにA(宮野)達と関係を断ち、綾瀬を離れていた。事件の結末はテレビのニュースで知ったという(Cの自宅の家宅捜査の映像映る 1989年3月30日)

ナレーター:4人が逮捕された後、彼(伊原)もまた、婦女暴行の疑いで警察から取り調べを受ける。

彼(伊原):発見された時の写真をこう…出されたんですよ。で、頭つかまれてこう、写真をグッと顔近づけさせられて「やったんだろ!やったんだろ!」と、ずっと繰り返し責められて…で、やっぱ辛くて写真なんか見れないんですよね。すごい姿で写ってましたから……涙ボロボロ出てきちゃって………。

ナレーター:家庭裁判所での審判の結果、彼(伊原)は半年間の少年院送致になった。

ナレーター:北アルプスの麓、長野県穂高町に初等中等少年院、有明高原寮はある。ここは短期間で更生が可能とされる少年を収容している。鉄格子や鍵はなく全国でも唯一の完全な開放施設だ。彼(伊原)は、ここで半年間を過ごすことになる。

(字幕) 1989年5月 入院

彼(伊原):最初の1日、2日っていうのはあのー、どうしてもショックのほうが大きくて、自分がその起こしてきた、やってしまった事件とかそういうことでもう…食事もホントとれなくて……。

ナレーター:彼(伊原)はまず事件のことをノートに書き記し、自分を見つめ直す事から始めた。そして都合の悪いことから逃げる自分の性格が被害者の彼女を助けることができなかったことを思い知ったという。

彼(伊原):自分で自分に腹が立つっていうか…少なくとも誰も死なないで済む可能性だってあったわけじゃないですか…。だから、もうちょっとやっぱり、彼女の立場になって本気で考えてあげれたら…もうちょっと違う形があったんじゃないかっていう…そうですね、悔やんでも悔やみきれないですけど……。

(字幕) 1989年秋 仮退院

ナレーター:刑事裁判で実刑判決を受けた少年が収容されている川越少年刑務所(埼玉 川越市)。ここに彼女の監視役だったD(渡邊)が服役する。D(渡邊)は11月の強姦に加わり、最後の暴行では彼女を鉄球で何度も殴るなどしている。

(字幕) 監禁・強姦・殺人などで懲役5~7年の不定期刑

(渡邊の部屋にて)
記者B:やってしまった事の詳しい経緯というのはご存知ですか?

D(渡邊)の母(当時55歳):ええ、だいたいですがあのー、裁判を全部傍聴しましたので、…知っております。………なんとかね、…助け出すことが出来なかったのだろうかとね、…すごい悔やまれるばかりですよね…。

(字幕) 1996年11月 D(渡邊)が仮出獄

D(渡邊)の母:最初はちょっと、規律正しくしてたんですよね。私も息子の部屋に入って、食事したり何かしたりしてたんですけど…そのうちなんかわたしが「うるさい」ってことで、部屋に入れないようになったんですけど…。

記者B:それは今でも?

D(渡邊)の母:今でもそうですね。

ナレーター:小さなアパートでの二人暮らし。D(渡邊)はふすまに鍵をかけ、6畳の部屋に閉じこもっているという。母親は3畳の台所で寝起きをし親子の会話はほとんどない。55歳になる母親は事件後、仕事を3回変わった。親戚や近所とも、ほとんど付き合いはなく人目を避けるように暮らしている。

(字幕) 夫とはD(渡邊)が5歳の頃に離婚

D(渡邊)の母:どんな形でも、(息子に)生きていてもらいたいというのが親ですから…。あれは一生ですね、私達の体から取れることはもう、それはないですね(事件)
前の自分達に戻ることは、それは出来ないですね。

記者B:被害者の遺族の方に会って謝罪したことはありますか?

D(渡邊)の母:いや、もう…それは、ないです……皆さん(遺族側)が拒否されてますからね。

ナレーター:被害者の遺族は、加害者側からの謝罪や面会を一切拒否している(被害者の葬儀の映像写る 1989年4月2日)


被害者の父の証言(1990年4月9日 公判)
「親の気持ちとしては、これだけ残虐な殺され方をして、返せといっても死んでしまったわけですから、償いは一生かかっても、やってもらいたいと思います。」

記者B:どうすれば償うことが出来ると思いますか?

D(渡邊)の母:子供が犯した罪は、やはり親の罪ですので……出来る事なら私達も死んでお詫びしたいですけど……まあ生きていてですね……お詫びしながらですね……。

(字幕) 事件や被害者について、息子と会話は一切ないという

記者B:親と子が、向き合うことは必要だと思うんですけど…。

D(渡邊)の母:そうですね。それはちょっと……うちの場合はまだですね、ちょっと、出来ないですね。お互いが殻に閉じこもってますからね。どのように話していったらいいか……もしそれが、失敗すればもっとひどいことにね、なっていく恐れがあるので……。

記者B:いつまでも、こういう状態ではいられないわけですよね?

D(渡邊)の母:まあ、いられないけども、私が生きてる間は、私があれ(面倒)しますけども、私のあとは今度は(息子の)お姉ちゃんが引き継いで、やっていくしかないので……

記者B:今でも、息子さんをずっと抱えて生きていくってことなんですか?

D(渡邊)の母:そうですね。

彼(伊原):(少年院を出て)一番最初にしたかったのがあのー、被害者の……彼女の供養。謝ってどうのこうのって問題じゃないんですけど、やっぱあれだけねえ、あのー、助けを求めたりしていた部分もあったのに、それに対して何も出来なかったので…。

ナレーター:彼(伊原)は遺族に謝罪しようとしたが、周りの反対に合い、諦めたという。その後の生活は職を転々とするなど、順調なものではなかった。中学時代の友人と連絡を断ち、未だに仕事以外で綾瀬に足を踏み入れることはない。

(字幕) 現在は建築会社で働く

(字幕) 1994年に結婚 事件のことをすべて話したという

彼(伊原):最初はやっぱりビックリして(今の嫁が)、何日か会わない日が続いたんですけど……彼女も悩んだところがあったんでしょうけど……今の自分を見ててくれる部分もあって……。

(字幕) そして、子供が生まれた

彼(伊原):かなり、変わりましたね。仮にやっぱり自分がそういう…被害者の遺族の人達と同じようなあのー、立場に立ったら、もう……どうしていいかも分からないし、もういたたまれないどころの騒ぎじゃないと思うんですよね。それぐらい(自分の)子供をやっぱ愛しているっていうのがあるんで…。今、改めてそういう風な親の立場になって考えてみて、ホント遺族の人は……悔やんでも悔やみきれないし、もう悲しいとか……そういう次元じゃなかったと思うんですよね。本当にあのー、大変な思いをしたんだろうなっていう……まあ遺族の人たちとか……したんだろうなっていうより、今でもしてるんだろうなっていう……そういう気持ちはすごいありますね。

記者A:罪を償うことって、どういうことだと思いますか?

彼(伊原):一番恐いのはやっぱり忘れちゃったり、薄れていって……またそういう時の気持ちが、忘れちゃったりしたら、結局また同じことだと思うんですよね。だから……一番大切なのはやっぱり……忘れないということは、イコールやっぱりあのー、ずーっと悩んでいくことだと思うんですよ。これ多分、答えの出ない悩みだと思うんで、どんなに悩んでも。だけど、その悩んでくってことが、自分にとって科せられた……まあある意味、罰だと……。

記者A:そういう過去っていうのは今後…

彼(伊原):それは、子供にはちゃんと話そうと思う。まあ、どういう反応されるかわからないですけど、やっぱり自分の一応…そういう面倒な事とか、嫌な事から逃れようとした結果で、いろいろな今まで事件とか、あのー、悪い事を引き起こした部分もあるので……まあ、わかってもらえるかどうかはわかんないですけど(子供に)分かる時がきたら、話そうと思います。

(当時の遺体遺棄現場の映像が写る。現在の様子も写る。現在は大きなビルが建っている)


被害者の父の弁
「私の気持ちは当時と変わらない。加害者に対する感情も変わらない。」

久米宏:今回の放送にあたりまして、殺された女子高生のお父様と、電話でお話するチャンスがありました。その際、被害者の父親は「今更、事件を掘り返してほしくない。出来れば放送も止めていただきたい」というお話でした。しかし、ご遺族に特集の主旨をご説明して、御覧のとおり、放送致しました。ご了解頂きたいと思います。
………まあ、人間っていうのは、なんて愚かで悲しいことをするんだろう、というのがまず………法律で罰を重くしようと軽くしようと、そういうのは関係なくて、なんでこんなことやってしまうんでしょうねえ。

朝日新聞編集委員 清水建宇(たてお)氏:この事件は、私が警視庁キャップになってすぐ起きた事件なんですよね。で、おそらくこんな酷い事件はその後、起きないだろうなって思って……その後起きてないと思いますね、これほど酷い事件は。で、今のビデオ見てて、犯罪被害者の会の武るり子さんが、ここでおっしゃったことを思い出すんですが、被害者は、心から罪を反省して詫びてくれることを望んでいるんだと…そうおっしゃってましたけど、じゃあ、どうしたらそれが出来るのかっていうと、こうすれば出来ますっていう手引書はないし、何年間かかければそれが出来ますっていうものでもないし、やっぱり今の彼(伊原)が言ってたように、一生答えの出ない難しい問題を背負っていくしかないんでしょうねえ。

久米宏:罰が重い、軽いに関係なく、自分も含めて家族ももう取り返しのつかない事に
なってしまうんですよね。それを是非、若い方にご理解頂きたいと思います。ニュースを
続けます。