「鬼は外」だから。
『ボーッと観る会』、昼の部。
今日は、日常でいろいろあって。
思考が落ち着かない人が多い。
じゃあ、「対象化しない」ワークを。
気になる問題がある時。
それを認識する「私」がいる。
まず、「私」があり。
私から観た「問題」がある。
当たり前だね。
この時、問題は、私からみた「外」にある。
「答えは、あなたの『内』にある。」
この言葉を聴いた時、
つい胸に手を当てたくならない?
そう、カラダの「内」にあると。
「内」や「外」だと言う時、
肉体を基準にしていないだろうか?
具体的には、皮膚が外界との境界線に。
解剖学的には、「内」にも心はないことは知っている。
けど、「あなたの内」と言われたら、
同時に「カラダの内」として認識している。
してるでしょ?
この観方では、「問題」が生じた時、
それは、あなたの「外」にある。
あなたから観ている時点で、
肉体の「外」にあると。
対象化しているのだ。
対象化するほど、思いどおりにならない。
「私」の及ばない存在に。
問題も対象化するほど、手強くなる。
では、どうすれば?
ピピッときたのが、こちら。
「あなたが知らないあなたの話」
阿部敏郎&雲黒斎 徳間書店
> 富士山を見るとき、
> 「あれは富士山だ」とか
> 「日本一の山」とか
> 「すそ野が描くカーブが美しい」といった
> 言葉による説明や評価を一切、脇に置きます。
> そして、目に飛び込んでくるそのままを、
> ただ見るのです。
> すると、いつのまにか富士山は
> 外側にあるのではなく、
> 自分と一つのものとして
> 内側に現れます。
これ、置き換えられるでしょ。
「富士山」を「問題」に。
物理化しているかどうかは、関係ない。
五感で認識している点では、同じ。
ということで、ワークに。
目の前の世界。
あなたの「内」側にあります。
「わたし」という意識がね。
空間全体に満ちています。
その空間全体にね。
感覚が起こります。
(おしりが痛いなあ)
(右肩がこってるなあ)
(背中がかゆいなあ)
その空間全体にね。
思考も起こります。
(晩ご飯、何しよう?)
(そう言えば、あのスーパー、特売日だ)
(久しぶりにお肉でも買っちゃおうか)
感覚も、思考も。
勝手に起こり、勝手に消える。
B’Zもびっくりの「easy come,easy go」。
この時、なくなります。
カラダを基準にした「内」と「外」が。
すべてが「わたしの内」に。
ああ、「問題」から逃避してるわけじゃないよ。
認識はできるから。
けど、言葉で定義できないの。
「問題」は、言葉で定義しないかぎり、成立しない。
前述の「富士山」への意味づけと同じ。
言葉で意味づけしなければ、
問題も深刻さを失う。
そんな日をどうか耐え抜いて、
明日にバラを咲かせる必要もない。
言葉とは、「私」の「外」を区分するツール。
すべてが「わたし」の「内」である場合、
言葉は意味を持たない。
ただ、感覚だけが生じ続ける。
その時、「問題」は「事実」に。
ただ起こっている出来事。
深刻な感情を伴わない。
淡々とすることをするだけ。
ああ、けど、反応は抑えなくていいよ。
その瞬間は、大変な出来事だと。
泣いても、わめいても。
起こる反応は、そのままに。
自ずと収まるまで表現し続ける。
「わたし」として体感しながらね。
同時に他人ゴトのように観る。
いつもの「どちらも」ね。
「問題」は、「外」にしかない。
すべては、「わたし」の「内」で。
お試しあれ。
今日は、ここまで。