ハァハァハァ・・・
私は、弁護士事務所があるビルの階段を登っていた。
うつ病で身体は限界に達しており、少ないエネルギーで、階段を登り、一つ一つ、弁護士事務所を訪ねていた。
2階から、一つ一つ、断られ、それでも諦めず、最上階の5階まで弁護士事務所をノックしようとしていた。
最上階まで来て、断られた私は、弁護士事務所の前で座り込み、動けなくなってしまっていた。
大阪から高知まで帰省してきたのに、「無謀過ぎたか…」
体力と精神力の限界に達したと思っていた時、5階の弁護士事務所の扉がスッと空いた。
室内から、スーツを着た同年代と思われるショートカットの柔らかい顔立ちの女性が出てきた。
「大丈夫ですか?」
うずくまっていた私が顔を上げる。
「はい…何とか大丈夫です」
「お話をお聞き出来るようなので、お入り下さい」
そう言って、私を促した。
あぁ、やっと聞いて下さる・・・
嬉しさで力がみなぎる。
「失礼致します」
目の端に、先生と見られる色白で縁の細い丸い眼鏡を掛けた小柄な30〜40歳くらいの男性が、こちらに向かい、「どうぞ」
と、ソファに私を促してくれた。
「よろしくお願い致します」
私は、深々と頭を下げた。
私が持って来た、資料を見ながら、事細かく説明していく。
秘書が二人ほどいる部屋の中は、多少乱雑に書類や本が置かれていて、黙々と仕事をしていた。
お茶を出され、「ありがとうございます」と、茶を口に浸す。
簡潔に私の話が終わると、先生からいくつかの質問があった。
そして…
「慰謝料は請求しますか?300万請求出来ますよ。浮気女性からも50万請求出来ますよ」
との話に驚いた。
請求したい気持ちはあったが、大阪の裁判所まで浮気女性を呼び、私も同席しなければいけない。
うつ病で、今でさえ精一杯なのに、私一人でそこまで出来る気がしなかった。
何故なら、私は三ヶ月だけ、大阪の弁護士事務所の秘書として勤務していたことがあった。
足が悪いのに、スーツにヒールで、大阪の大きな裁判所周りを歩き回るのは、右足に負担がかかり、痛くて大変だった思い出があったのだ。
梅田から、大阪の裁判所まで相当歩かないといけないのは熟知している。
うつ病の今の私には到底無理だった。
誰か、一人助けてくれる人がいれば良かったのだが、今のパートナーとは、冷戦状態だったのだった。
慰謝料も300万も貰えるのは驚きだった。
義母から、仕方なくあげるような態度でくれた慰謝料は、たったの100万。
悔しい・・・・。
うつ病にさえならなければ・・・。
しかし、本題は、親権の取り戻しだった。
今の環境を聞かれ、そこに焦点を置いて進めて行こうと言う話で終わった。
大阪に戻った私は、うつ病が益々悪化していた。
不眠状態が続き、食欲が激減していき、苦しくなっていった。
元々パートナーは、情がない人で冷たいところが、最初から見え隠れしていた。
親権の話もしていたつもりだったが、
「聞いていない!!」の一点張りだった。
そして、お腹に宿っていた小さな命も、心臓が動いていなくて流産してしまい、これで二度目の墮胎手術を受けた。
かなりの精神的ショックを受けたにも関わらず、些細な喧嘩で、手術当日も電話に出てくれなかった。
弁護士と話を進めていたのに、夫婦間に亀裂が入ったことで、親権の取り戻しは出来なくなってしまった。
仕方なく、面会の義務だけ、申請することにしたのである。
その後、眠れない日々に疲弊し、遂に米粒一つも食べれなくなり、一日一缶の栄養剤を飲む生活までになり、毎日、希死念慮とイライラ感に襲われ、最悪な状態になってしまったのだった。
次男にも、この頃、厳しく当たってしまい申し訳なかった。
離婚間近、パートナーが次男に対する態度が冷たくなっていった為、次男を呼び、一緒に寝るようになった。
今考えても、私は、あのパートナーとは相性が悪かったと思う。
お互い、一目惚れで、スピード結婚したが…
早過ぎた。
大阪で親しくしてくれたママ友二人とお別れ会をして、私は、ボロボロになって高知へ帰省するのだった。
親権は、取り戻せなかったが、面会の義務の申請を弁護士と一緒に申請し、晴れて長男と会えるようになるのだ。
それだけでも嬉しかった。
早速、申請後、長男に会いに行った。
あいも変わらず、「会うな」と元夫が阻止。
「こちらは、法的措置を取りました」
と言っても、元夫は、その意味すら分からない。
直ぐ、弁護士に電話する。
後日、裁判所から二人が、元夫宅に訪問し、面会の義務があることを伝え、決まったことを元夫は、しっかり聞かされるのであった。
この頃は、面会の義務だけで、慰謝料も養育費も結婚生活も、うつ病も、全て上手く行かず、から周りしている年月だった。
何より、私の小さな命二つが天に召されたことが、何より一番悲しい出来事だった。
小さな命だけでなく、自分の命まで天に召されようとする日が来る…とは…
続く