こんなお母ちゃんでごめん | うつ病 闘病記

うつ病 闘病記

34歳でうつ病を発症し、壮絶なシングルマザー年月を経て、うつ病を繰り返しています。その中で、うつ病の体験を元にうつから解放される為に何かに気付いたり、生きる糧になればと願っております。


今朝の起床も4時ニコニコ

牛乳を飲んで、顔を洗いスキンケアをし、日焼け止めクリームを塗って、5時30分に散歩20分歩きました。

今のところ一週間朝散歩、継続中です爆笑

おじいちゃん友達に迎えに来て貰い、おじいちゃん友達の家で朝食を食べました。

今日は、私の記憶のない部分で、次男に申し訳ないことをしていた話をします。

うつ病が発症と共にシングルマザーの生活が始まりました。

ほとんど、布団で寝ていた私です。
幼稚園をあと、数ヶ月で卒園という時期に、反対する私を無視して、義母に保育園に転園されていました。

別居中、保育園になったので、身体にムチ打って、泣きわめく次男を抱っこしてあやし、何とか保育園に車で送迎していました。

保育園の卒園式も、身体が重く、怠い中、必死で行ったことは記憶にあります。

小学校に入学時には、離婚、引っ越し。小学校に入学する前の準備(細かいものへの名前書き)がとても苦労しました。

そんな無理が祟って、朝から起きられず寝込む毎日になりました。

朝は、記憶がないのですが、パンでも準備して寝てたのでしょう

次男は、学校に行く度に私の枕元に来て「お母ちゃん行って来るね」と小声で行っていたそうです。

それでも、学校からの手紙等を読み、翌日の準備をして、ランドセルを玄関に置いていたのは記憶にあります。

宿題は見たこともなく、まともに話も出来ず、次男の話に、うん、うん、と寝ながら小声で応えていたそうです。

次男は、母親はこんなのが普通だと思っていたらしく、友達のお母さんを見て、元気なのを見て驚いたそうです。倒れるんじゃないか?と思ったそうです。

高校生活まで、いろんなことがありました。

イライラして、次男に当たったこともあったそうです。それは、最も具合いが悪い時期でした。

眠れない
食べれない
動けない

この3つの症状は、私を究極まで苦しめました。

初めて、命の電話に頼ったのもこの頃です。

次男が小学2年の頃です。

一日、心療内科から貰う栄養ドリンク缶一本飲むのが精一杯でした。

眠れなくて、朝まで起きて、朝イチでファミリーレストランに行き、食べれないモーニングを頼み、ボーッとしていました。

とにかく孤独でした。

この頃は、大阪にいたので、特に孤独でイライラしていたと思います。

次男は、勉強についていけず、発達障害じゃないか?と何処かに相談もしていた記憶があります。

人とのコミュニケーションも、何処か不自然だったのです。そんな心配をしながらも、自分のことで精一杯で、怒鳴ったりしたこともあったと、今次男が教えてくれました。

ごめんね…と謝るしかありませんでした。

うつ病の私と次男の生活は容易ではありませんでした。

遠足、運動会、が恐怖でしたねショボーン

皆さん、豪華なお弁当を作りますので…

死にものぐるいで、朝起きて、手作り唐揚げ、作ったりしてあげましたが、喜んでいてくれていたようです。

でも、本当に恐怖でしたね。朝起きられないのですから。

運動会も、体力が持ちませんでした。

中学、高校、と運動会があったことさえ知りません。

酷い母親でしたね。

でも、次男は寝たきりでも、お母さんがいつも側にいてくれたことが一番良かった、と言ってくれています。

高校時代は、あいも変わらず、朝起きれないしお金もなかったので、自然に自分でお弁当を作って3年間持って行ってくれました。

こんなお母ちゃんについて来てくれて、ありがとう

次男に感謝ですおねがい