こんにちは。
最近体調が優れず、横になって書いています。
大うつ病が発症したのは、34歳頃。次男が4歳〜5歳の頃です。
一言・・・・・
シングルマザーうつ病の子育ては、果てしなく辛い…
自分のことが出来ないのに、幼い息子の世話は、ほぼ出来ない状態です。
あまりに大変過ぎて、記憶が飛んでしまっています。
色々ありました。
元旦那の浮気発覚から、長男の親権を無理矢理取られ、うつ病が、一番酷い状態の時に、別居、離婚して、泣く泣く次男との新しい生活が始まり、もう数ヶ月で幼稚園を卒業する時に、元旦那の母親に、私が弱って入院しているにも関わらず、反対しても勝手に保育園に転園させられました。
息子が可哀想でした。私が選んだ幼稚園なので、先生方は、とても優しく親切、丁寧でした。
息子の発達障害が顕著に現れていた時期でしたので、保育園では、叱られてばかりでした。
私の退院後の送迎(遠方に引っ越ししたので)も、辛く、行きたくない!!と大泣きする我が子を、時間ギリギリまで座って抱っこしてあやしていました。
卒園式も、具合が凄く悪い時で、身体を起こせない状態を、自分にムチ打って出席しました。
次男が小学校に上がり、準備は私がやって玄関にランドセル等を置いていました。
まだ、入退院を繰り返していたせいもあり、多分片道4時間位かけてバス、電車、を乗り継いで、実家の母親に助けて貰っていたのかも知れません。記憶がないです。
食事は、どうしてたのか全然記憶がないのです。
ずっと寝たまま、動けない日々だったので、小学校の給食は、本当に助かりました。でも、朝食と夕食の記憶が全くありません。
遠足と運動会が、一番苦痛で苦痛で…一度友人に立派なお弁当を作って貰い、大変助かった思い出があります。
しかしながら、ずっと炎天下で外にいる運動会が苦痛で、自分の車に乗り、椅子の背もたれを倒して、横になっていましたね…
けれど、小学校が一番手間を取らず、楽だったのかも知れませんね。
次男が小学二年生の頃は、大阪に行っていたので、私にとって、とてもキツく不眠症で苦しみ抜いた頃でした。
引っ越し、転校、病院の転院、あらゆる手続きがあり、発達障害の次男は、勉強も追いつかず、担任に叱られてばかりだったのに、私も最悪の体調で食事は一日で、病院で貰う栄養ドリンクの缶一つ飲むのが精一杯の上、大量の薬を飲んでも眠れず、朝まで耐えられず、必死でファミリーレストランに行ったり、命の電話をかけていたくらい地獄を見ました。
それまでも、複数回、自殺未遂をしていたり、自傷行為はしていて、イライラが止まらず、後に次男に聞くと、小学二年生当時、私はいつも不機嫌で怒っていたそうです。(申し訳ない(泣))
でも、ずっと一緒に寝るように努力していました。
ママ友も出来て、助けられた記憶があります。感謝ですね…。
大阪では、一年で私がダウンし、高知に戻り、相変わらず入退院を繰り返していました。
次男が、中学生になると、又記憶が無く・・・・・
息子がいじめに、2度あった時だけは、普段の数十倍力を出して、息子を守り抜いた記憶だけはあります。
引っ越しは、数回あり、アチコチ転々としながら、母子寮に半年間入っていたこともあります。
詳しく書けなくて申し訳ありませんが、目まぐるしく、自殺を繰り返しながら必死で生きていたように感じます。
その頃のお弁当は、冷凍食品ばかりでした。
作れない時が多かったはずだと思います。
高校の試験頃も大変で、担任は何処も受からないので、夜間高校を強く勧めて来ましたが、私はどうしても普通高校に入って欲しくて、受験したものの、案の定、不合格!!
息子と泣きながら、又同じ高校の二次試験を受けさせました。どうしても皆と同じ公立に通わせたかった想いが強かったですね。
合格発表当日、二人で高校に合格者を見に行きました。夜間しか無理だと言われていての第一希望が不合格だったので、不安の塊でした。
しかし、奇跡的に息子の受験番号が、合格者にあり、二人で人目をはばからず、抱き合い、泣いてしまいました。
高校では、私の状態が悪化したので、自然と次男は自分でお弁当を作って持って行っていました。
今までの無理がたたったんでしょうね。
中学校は、車で送迎してお弁当も作っていましたので…
この頃、初めてヘルパーさんの存在を知りました。
無料で二度、お世話になりました。
高校では、今度は、進級出来ないくらいに成績が悪く、当時知り合った若い頭脳明晰な友人に家庭教師をお願いして、何とか無事に卒業出来ました。
卒業式は、涙が出ましたね…。
就職先でも、苦難の連続の息子・・・・・
発達障害ではないか?と疑い始めたのは、社会に出て3年目頃でした。
よく5年も発達障害にも関わらず、一般就労で正社員で、よく耐え抜いて働いて私を養ってくれたと今でも感動しています。
本当に感謝しかないですね。
シングルマザーでのうつ病時は、誰も助けてくれない、理解してくれない、と嘆き悲しんでいましたが、今改めて考えると、沢山の人達に助けられていたことを実感します。
今も、息子と同じアパートで、うつ病と発達障害を親子で持ち、大変ですが、必ず暗いトンネルは抜けられると信じています。
何故なら、2度、断薬成功!寛解!した実績があるからです。
記憶が飛ぶくらい壮絶なシングルマザー生活でした。
細かくお話すると、驚かれるくらい壮絶だったので、このくらいにして置きます。
長文失礼致しました。
うつ病期間中、嬉しかったこともあったので、皆さんも視野狭窄にならず…
大変な時は、精神保健センターや、区役所にお願いしましょう!!
次男が、働いていた最後の方は、私も少し動けるようになり、お弁当を作り、就労支援センターに通うまでになりました。
最終的には、障害者雇用で働き、一年で退職し、断薬、寛解して、身体は嘘のように軽くなり、毎日笑って過ごしていました。
寛解まで、約16年間掛かった大うつ病でしたが、今では大人の発達障害であることも分かりました。
遠回りの人生ですが、日常生活での少しのことも感謝出来るようになり、人の痛みや弱い部分を理解出来るようになったことを、嬉しく思います。
息してる
動ける
感動する
思いやり
緩める
楽しく
色々なことを、学び、体験させて頂きました。
一番は、息子に感謝ですね
今も怠いですし、希死念慮も湧きますが、主治医と相談して、薬に助けられながら生きています。
皆さんも、必ず寛解しますので、思考と行動を緩めて下さいね。
長くなり、申し訳ありませんでした。
しかし、うつ病は苦しいですね…