普通とは何?(発達障害の息子言葉) | うつ病 闘病記

うつ病 闘病記

34歳でうつ病を発症し、壮絶なシングルマザー年月を経て、うつ病を繰り返しています。その中で、うつ病の体験を元にうつから解放される為に何かに気付いたり、生きる糧になればと願っております。

昨日、息子は珍しく独りで悶々と悩んでいた時期の話をしてくれました。




私が関東に行ってから一年半年の間に、息子は仲良しの友達が二人出来ていて、私は嬉しく思っていました。





息子は、高校生の頃一人だけ信頼出来る優しい友達がいる以外、友達と呼べる存在はいませんでした。





息子は、幼少時期に多動的で言葉の発達が遅れ、友達とのコミュニケーションが取れず、専門医に頼りましたが病名は告げられず、言葉の教室に通っただけで終わりました。




不器用ながらも、健康で何事もないかのように育ち就職。1日も休まず、早朝から5年間、健常者として働いていました。




ある日、発達障害ではないだろうか?と思う問題が生じ、今に至ります。





今、専門医に通院中で検査していますが、恐らく発達障害であろうと言われています。





そんな息子が、昨日吐き出すように突然私に言い放ちました。




「普通はこうするよ!!とかよく人は言うけど、普通って何よ?普通ってその人の主観でしょ?!」




息子は、苛立ちを隠せないくらい、いつになく強く私に言って来ました。




私は、「そうだよ、普通なんてないよ、貴方の言う通り主観であると思うよ」と言いました。




続けて私は、「普通はないけど、自分が感じる痛みや辛さが相手にもあるかも知れないからね、思いやりはあって良いよね?」と言いました。




そして、息子は心に溜まっていた仲良しであろうと思っていた友達との関係の不満を次々吐露していました。




不満の波が一気に押し寄せたかのように息子は喋り続けていました。





息子の話を聞きながら私は、今まで独りで「普通」と違う自分に随分葛藤してきて、自分を隠し、自分を殺して生きて来たと察し胸が痛みました。






何とも言えない複雑な心境の私でした。息子の気持ちを受け止めるように、傾聴していました。(やっと受け止めることが出来るようになった私です。)








息子は、幼少時期から思春期まで、うつ病で苦しんでいる私を見てきました。





私は、理解出来なくても、息子には「うつ病と言う病気で動けないんだよ」と日々言い続けていました。




誰も理解してくれない状況下で、約16年間、息子と二人向き合って必死で生きて来ました。






何もしてあげられない情けない母親でしたが、動けば動くほど、病は容赦なく私を襲って来ていたので、ほとんど布団の中で罪悪感と闘いながら呼吸だけしていたような気がします。




ですが…毎日言い続けることで息子も成長していく中で何かを感じていたらしいです。





息子が就職してしばらく経った頃に、「お母ちゃんはどんな人だと思う?」と息子に聞いてみました。




息子は、直ぐさま「頑張る人!」と言った時は、声が出るほど驚き、申し訳ないような、嬉しい気持ちになりました。





私は、ずっと息子の側に居ても、発達障害だと気付けませんでした。





それだけ、精神疾患を持つ人や、先天的に障害を持つ人の気持ちは、簡単には理解出来ないのだと痛感しました。





同じうつ病でも…
うつ病だけの持病の人

発達障害からうつ病を併発している人

統合失調症からうつ病を併発している人

摂食障害からうつ病を併発されている人

不安障害からうつ病を併発している人


様々な人がいます。



これらを全てを理解するのは、この私でも無理難題なことです。





それこそ、20年くらい一緒に居て向き合っていて、やっと少し解って来るものだと思います。(理解しようとする姿勢が大切)





今は、ネットで情報を収集することは容易ですが、調べる内に同じ病気でも、人其々症状が違うことに気づきます。





最近、私はうつ病とか、発達障害とか、区別することなく、人間は誰しも個性的な一人の人間であって、『普通』の概念はないのだと思い始めています。





勿論、病気をお持ちの方が辛いと理解していますが、健常者でも『普通の人間』は何処にも存在しないと思います。




『普通』であることが、美しいこと、素晴らしいこと、当たり前のこと、として今まで、人間が勝手に造り上げた概念であるのかも知れません。



この世の中に、絶対的な確たるものは存在しないと思っています。





今日思ったことが、明日には変わっているなんてザラにあります。





普通はこうである、普通はこうするよね、と言う発言は今日から使いたくないと思いました。(今までも使っていなかったですが…)




男女とか、障害者とか、起業家で裕福とか、ステータスに囚われない生き方こそが、幸せに繋がる生き方ではないかと思います。




コンクリートの隅から懸命に出てこようとする小さなお花を見つめながら、この見過ごされるような存在でも生き続けることに価値があるのだと思います。




そこで思ったことは・・・

人生は、勝ち負けではない


普通や常識で自分を苦しめないで

と伝えたいです。



世界でたった一人だけの素晴らしい個性を持つ存在である

声を大にして、言いたいことです。




ダメな自分とは、何と比べてダメなのでしょう?




大切なことは、自分の個性を認めることです。



自分の個性に気づき、それを嘆くのではなく、価値あるものに変化させて行くことが重要であるように思います。





オーストラリア留学時の長男です。

(次男が発達障害です。)




模索する毎日の私です。
非常に面倒臭い私です。笑




息子が作ったオムライス。「お母」と書いています。笑


ありがとうお願い



今日も拝読なさって下さる方々に感謝しています。



ありがとうございました。キラキラ霧