私はロボット | うつ病 闘病記

うつ病 闘病記

34歳でうつ病を発症し、壮絶なシングルマザー年月を経て、うつ病を繰り返しています。その中で、うつ病の体験を元にうつから解放される為に何かに気付いたり、生きる糧になればと願っております。



今日、ずっと怠さと、強い不安感に見回れて痛感したこと。


私は、優れたAIではなく、昔ながらの人間型ロボットなんじゃないかと思う。


何気なく、
何となく、
無意識に、


日本の文化に染まり、親の教育を受けて来た私。


今関東に居住しているが、関西に住んでいた時期があった。


関西では、関西地方ならではの色がある。


又別の地方では、別の色があり、日本に居ながら、季節がありながら、北海道と沖縄では、気温差がとんでもなく違う。



其々の地域で、其々の歴史があり、日本と言う国は、小さな島国であるのに、統一されている風習にも見え、又違う人種達が住んでいるように見える。



鎖国だった日本が、今では、インターネットが普及したお陰で、海外の動画を見たり、言語や生活スタイルに触れたりと、更により良い日本になってほしいと願う。



携帯電話なんて、私にしてみると最近の話だ・・・。


そう考えると、凄まじい勢いで日本だけではなく世界が変わっていると思う。



その内、携帯も要らない時代になり、「携帯?懐かしい」と言われる時代になるだろう。


しかし、良い面だけではないと思う。


私の幼少時期は、お菓子じゃなく駄菓子世代。

幼少時期、私の住んでいた田舎の家の前の道路に、ロケットローソク号をロウソクで描いた記憶がある。


両親は、教育の仕事をしていたので、絵本だけは、大量にあったのだ。



その中でも、2冊の絵本がまだ私に根強く心に残っている。




一冊目は【小さいお家】と言う絵本。
もう一つが【ロケットローソク号】と言う絵本。



【小さいお家】は、今でも書店に並んでいるのではないかと思う。私の子供達に改めて買ったと言う経緯からそう思う。



【ロケットローソク号】は、簡単に内容を言うと、小さな少年だったか、記憶に乏しいが、道路にロウソクで書いたロケットが、翌朝、本物のロケットになっていた、と言うSFちっくな絵本である。




絵本の中の少年だったか、子どもは本物のロケットに大喜びした後、ロケットに乗って、お菓子の国に行く…と言う設定だったのである。




帰りのロケットの中には、沢山のお菓子に取り囲まれたその中に、主人公が笑顔で宇宙飛行士のような格好で浮いていたのである。キャンディ。キャラメル。チョコレート。ビスケット。(今で言うクッキー)等の絵が描かれていた。




当時の私は、お菓子をたらふく食べたい欲求が強く、空想と現実が混在していたのであった。




ある日、母親に小さなロウソクの欠片を貰って、大きなロケット🚀を道路一面に描いたのである。
舗装されていないガタガタ道だったにも関わらず一生懸命書いた。




翌日まで、胸を高鳴らせていた私。
(本物のロケットが出来ていて欲しい希望から)



翌朝、勢い良く飛び起き、直ぐ確認に行った。
私の夢は、儚く、虚しく・・・薄いロウソクの跡が残っている現実へと消えていった。



昔から空想に浸ることが好きだったようだ。



今の時代からは想像が困難であろう私の幼少時期の話。

小さなコンビニでさえ、数種類のお菓子、ケーキ、プリン、ゼリー等が並列してあり、当時の自分には想像さえ出来なかったことだからだ。




保育園の時に、初めて「ハム」と言う食べ物を知り、友達と買って、こっそりハムを食べた記憶がある。その当時のハムは着色料が塗ってあるような濃い色をしていた。



今考えると、そんな小さな幸せが、心に大きな充足感で満たされた気持ちになったことが、今現在でも、宝だと思う。



今となって思うのが、愛情をモノで心を埋めると充足感に満ちることを覚えたのではないか。




両親は、厳格で規律正しい。
その上、祖父祖母と同居していて共働きだった。




保育園は、大嫌い。
小学校は、もっと嫌いだった。




家が一番落ち着いていたと思っていたが、家でも両親の監視下にいたのである。




今考えると、家が一番落ち着くのではなく、外より家が安全だと認識していたのかも知れない。




そんなお菓子さえ、毎日買って食べられない幼少時期を経た私。




その充足感は、ハムを食べた幸福感と同時に、友達と関わったことがセットになっていたのかも知れない。保育園時、友達は居ないに値していたからだ。



どちらにしても、貴重な体験だったのではないかと思う。




私達は、当たり前のように電車に乗ったり車に乗ったり、究極で言えば、水を飲んだり、屋根がある、布団がある生活をしているが、それが常識ではなく、いつも感謝の心を忘れてはいけない。




常識で無意識に使っているからこそ、当たり前になるのは仕方がないことだろう。



しかし、人間の心まで常識化してはいけないと強く思う。




虐待や殺人、虐め、等もそう。




どれも、人間が人間に対して、無意識に作りあげた心が欠落した常識である。


親や環境から受けた影響に合い、簡単に犯罪を犯すくらいの大きな欠陥ロボットに作りあげてしまう恐ろしさがあると危惧している



親や環境が、子どもに与える影響は、果てしなく大きい。


先ずは、親や教師がその常識に縛られている可能性が高いと言える。




ロケットを書いた時のワクワクした気持ち。
お菓子に囲まれた空想の満足感。(想像力)
保育園児の頃食べたハム2枚のゴージャス感。



どれも、心が充足されて満たされた幸せだった。




それが、いつの日から、父親の怒涛が響く家に変わっていて、父親に抱かれても緊張している私だった。




唯一、救われたのが、祖父と一緒に寝る布団が一番落ち着いた。



母親は、私に過干渉。



嫌がる私を無理矢理抱きしめ、甘えて来る。



そして、放任かと思えば、強い束縛。



そうした、一貫性があるようで、ない家族の中で育った私は、家でも嫌いな学校のような居場所になり、あの幼少時期に味わった充足感は、ずっと得られないまま、親の奴隷として、息を潜めるように育ったのである。




おかずは、4人家族にも関わらず、一品しか出なかった。それを数日間、小分けにして食べる。裕福な家庭であるのにも関わらず。



親の命令は絶対守る。
民法TVは禁止。
19時には家族揃ってニュースを見る。
小さな音も立ててはいけない。
門限16時。
行儀作法。
靴は、揃えて上がる。
夏は、玄関先で靴下を脱ぎ、浴室までかかとで歩き、足を見る洗う。
お菓子なし。
お弁当は、ご飯に梅干し一つ。おかずが余ったら何でも詰め込む母。(戦時中の影響。食の価値観。)
クリスマスは、頂きモノの半分以上のケーキがあれば良い方。
クリスマスは、パーティーもプレゼントもなし。
誕生日プレゼント無し。
食事中、一度も楽しいと感じた事がない。




唯一、夏に1ダース甘いキリンの瓶ジュースを父がビールと一緒に頼むのが、唯一の楽しみ。
それに飛び付く兄と私。勿論あっという間になくなる。



今考えると、栄養失調気味だったのではないかと思うくらいの食生活は、苦痛そのものだった。




鉛筆1本でも自分の部屋以外に置いていると、怒鳴られ説教される。
父親の機嫌で、毎日父親の叫ぶ怒鳴り声。



歪んだ愛情だった…。




いつからなのかは分からないが、父に警戒心を持ち始めたのが、4歳頃。母に疑問を持ち始めたのが中学生。



私は指しゃぶりが、小学6年生まで辞められなかった。



恥ずかしいと思いながら辞められなかった。



今思うと、親の真の愛情の変わりに、指で解消していたのかも知れない。




いつの間にか、ストレスを出せない身体になる。



小学校登校拒否。
自律神経失調症発症。(現代のうつ病)



そうして、34歳で人間崩壊。




人間不信。
薬を服用しても不眠状態が続き、入退院を繰り返す。
発狂する。
自殺未遂数十回。(危篤状態になる。)




16年後、断薬後、寛解。



長男就職後、単身関東進出。(次男は就職3年目)



1年後、うつ病再発する。



只今、生きている。



ただ、ただ、生きている。



薬によって動けたり、眠れたりしている。



たった1錠の抗うつ剤と頓服の安定剤と・・・。




まだまだ、身体と心が繋がっていないと実感している。




赤ちゃんの頃のように、人間らしく生きたい。



今は、それだけが課題。



自分を抱きしめ、自分を労り、誰よりも大切に大事にして行こうと思う。




ロボットを人間に戻すまで、数十日、数年いや一生掛かっても治らないかも知れない。



それでも、関東にも、他人にも縛られず、自由に楽に生きたい。



個の時代突入。



両親のことは、40歳後半時、やっと許せた。両親は必死だったはず。そして両親も人間。親より一人の未熟な人間だったのであろう。


私は、子どもにそれをしてはいない。


個人として尊重し、向き合っている。



親と言う肩書きは捨てている。



最後に。

どうか、自分の常識を見直して頂きたい。そして気づいて欲しい。



自然を愛し、
人を愛し
そして、何よりも、自分を愛することである。







ただ、ただ、生きていく。



それだけで、立派。
それだけで、自分を褒め称える。