寛解が遅れた理由…絶望の日々から | うつ病 闘病記

うつ病 闘病記

34歳でうつ病を発症し、壮絶なシングルマザー年月を経て、うつ病を繰り返しています。その中で、うつ病の体験を元にうつから解放される為に何かに気付いたり、生きる糧になればと願っております。


私は、一度目のうつ病発症から寛解まで、仮面うつ病と診断されてから実に16年の年月が、掛かりました。


今、四国に帰省中ですが、色々思い出して来ました。



今日は、何故、こんなにも寛解が遅れた最大な点だけ、言おうと思います。



最大な理由その1

育った環境と性格(思考も含む)
この事は、以前のblogに記述していますので、割愛します。


最大な理由2

他者への憎しみ。
これも、以前記述済み。


最大な理由3

母子家庭


そうなんです。うつ病発症と同時に別居、離婚しました。



それからが、大変な道のりでした。



他者への憎しみの深い部分の一部を書きます。


孤独感と、自責の念がある中、上の息子の親権を、理由無く奪われた上、不倫相手と私が住んでいた場所で、上の息子、元夫、不倫女性、と離婚後、住むようになっていき、やがて元夫と不倫していた女性は再婚しました。



私が動けなく、苦しんでいる最中、元夫と気の強い家事もしない女性と、愛しい我が子と住んでいたのです。幸せそうな二人に復讐心と恨みと憎しみで一杯でした。今、再発、寛解に向かっていますが、帰省した事で、やはり、このように書くと苦しいですね。ショボーン
(長男が一番、苦労したと思われます。
小学生6年生から、私の家に逃げて来た事が数回あります。不倫していた女性が暴力を振るって怖いと言っていました。)


話は、離婚当時に戻ります。
親権を奪われた上、元夫の義理の母親に「あんたは、もう母親じゃないから、長男には会わせない!」と門前払いされたこと数回ありました。



息子が会いたいと言っても、義理の母が私に会わせないように、孫に嫌みを言うのです。(信じられませんガーン)



うつ病になっただけで、辛いのにその上で、義母の仕打ちは、酷いものでした。



私は、動かない身体に鞭打って、あらゆる手段を取る為、幼い次男の手を取りながら、弁護士を歩き探し、法的手段の手続きを取りました。



結果、面会が出来る法的手段は取りましたが、親権は無理でした。



又、誰にも頼る人が近くに居なかったので、本当に地獄の日々でした。(実の母親は、車で3時間30分離れた場所で暮らしており、車の免許は持っていませんでした。)



親権を理由無く奪われた上、会わさないようにした義理の母親の気持ちが、今でも理解出来ません。



こちらは、うつ病で体重は29㎏。
動くのもトイレくらいしか行けない状態でしたのに、感情的に叱られ、罵声を浴びせられました

(その時は、病院の公衆電話だったので、その場で倒れ、看護婦さんに病室に運ばれ、医師が病室まで来て下さいました。)



命より、大切な我が子…
しかし、守る事が困難な自分…
息をしているだけで精一杯だった自分…
憎しみは100%でしたね。



息子を一目見たいが為に、真冬に車で一夜明かし、ランドセルを背負って、同級生の友達と笑顔で学校に、行っていた一瞬の息子の顔が今でも記憶にあります。
(当時、長男は小学2年生になったばかり)


それから、次男は幼稚園の年中さんから年長さんに変わる時期で、後に発達障害だと判りました。

当時は、凄く心配していました。【落ち着きがない、勉強についていけない、言語障害、中学で2度虐めに合う、高校受験難関、高校進級出来ない】等の問題が次々と試練のように降り掛かりましたが、辛いとは思わず、申し訳ないと自分を責め続けていました。



言語教室に通うのも、大変でした…。


ここで書ききれない程の大変さを経験しました。



安静にゆっくり休みなさい、と医師に言われながらも、最低限のやらなければいけない事から、逃げる事は頭の片隅にもありませんでした。




必死で動く→うつ病の最大な波が襲って来る(一度動くと、1ヶ月以上金縛り状態でした。)→苦しさの限界に来て自殺を図る。


↑↑13年間、これの繰り返しでした。



もっと、悲惨な事が降り掛かりましたが、それは伏せておきたいと思います。



うつ病になっただけでも、辛く、苦しく、動けない状態です。



シングルマザーの方々のうつ病、又は、お子さんをお持ちのお子さんは、本当に本当に、地獄のように辛いと思いますので、頼れるものには、頼って下さいね。



最も、寛解が遅れた最大な理由は・・・



シングルマザー


貧困生活



この2つが、最も大きいと思います。


少し動ける時、二人で1ヶ月辺り、食費雑貨(トイレットペーパー等含む)で2万弱で生活していました。



生活保護と言う名前は聞いた事がありましたが、頭が働かない状態で、本当に必要な時期に、貰えず、次男が高校進学時期から3年間、お世話になった次第です。



それも、当時、支援してくれていた福祉の方の勧めです。ありがとうございます。




このように、地獄より底があるような体験と絶望を味わった私ですが、今、こんなに元気で居られることに、周りの暖かい方々に心から感謝しています。



皆さんも、一人で頑張ろうとせず、限界に来たら、お子さんを一旦施設に預けるか、身内に頼るか、お願いする勇気を持って頂けたらと思います。




今日も拝読して下さり、ありがとうございます。お一人でも、自分一人ではないと気づけますように…





幾つもの道は、あります。手手紙くつ

視野が狭くなりませんように。コーヒー

必ず、貴方にとっての幸せが来ますように。プレゼント