10月 ここ最近のこと。
午後・・・・ 何時だっただろうか・・・・
気がつくと心地良い風が、私の頬を優しくなでる海辺近くの広場に居た。
それに相反して、周りの景色の色がグレーに視えるのは、気のせいだろうか?
空を見上げると、太陽の光が上空の一面を覆う雲間から薄っすらと一本の筋を描いて見えるだけだ・・・・
頭を下すと、真っ先に深緑の木々が目に映った。
5m先の正面には、秋に移り変わるのは、まだ早い、、と言ってるような、、、青々とした濃い緑の大きな葉を茂らせ、凛と威張って立っているかのような木々が、横列に並んでこちらを向き、私を歓迎してくれているようだった。
「やっぱ・・・緑は癒されるなぁ・・・・・。」
思わず自然と私の口が開く。
・・・と同時に、「ありがとう」と心で呟いた。
それだけ、自分らしく力が抜けるような、心地良い空間と気候だった。
周りを見渡すと、正面の木々の向こう側には、広大な広場の先に海が見えた。
私は、自然と吸い寄せられるように、海の方角に歩を進めていった。
私の歩と同時に、沢山の子供達の楽し気な会話や、お父さんらしき声が、学芸会にでも行ったかのような音源として私の耳を通っていく。
癒されると同時に、心がワクワクしてきた。
沢山の家族の笑顔で、白い空から差し込む一筋の光が広場の地面に反射して、一面が光り輝いているようだった。
真っ先に海の水を見たかった。けれど、ある思いが頭によぎって恐る恐る海の波際まで、近づいた。
そして、ジッと目を凝視した。ドキドキ鼓動が高鳴っていく。
何故なら、私の故郷の海はとても綺麗な透き通るようなクリスタルグラスのような透明度の海水だからだ。
あぁ、、、、良かった!
想像以上により透明度があり、水際にはびっしりと、緑の藻が蔓延る一面が綺麗に私の眼を捉えたからだ。
私の横では当たり前の景色として静かに遠くを見ている地元の友人が一人で佇んでいたので、私は少しオーバーリアクションで、「綺麗!!」と感歎な声を発した。心が安堵感で溢れ、満足した。
一時期、経済が急成長しようとした時代に、自然破壊もそれに伴うように進んでいたからだ。
今は、一人一人の意識が変わっていっているのだろう。
どういう風に人の意識は変化していき、又それがどのように広がったのか・・・・
戦後から必死で行き抜く為に、物を豊かにする時代は徐々に変わりつつあるのだろうか。
物が豊かになりすぎてしまい、心を何処かに置き忘れてきた自分に気づくべき時代に変容しなければいけないのではないのだろうか。
海の水を触り、意外と暖かい感触だと感じる。
海辺の浜の砂を掴むように、ギシギシとスニーカーで大地を踏む感覚。
いつも、機械音に包まれて生きている私達。テレビや音楽がないと物足りないと感じる心。戦前と比べてみても、遥かに文化経済の発展があり、インスタントで出来る時代になって、自分の五感で体感する時間もないのだろうか?
時間に追われ、義務に追われ、責任と言う言葉に振り回され、「疲れた」と心の中で幾度感じることか分からない。やってもやっても満足感を得られず、上がらうこともできず、時間が無い、時間が無い、とあっという間に日が暮れるのである。
時間が無い、とはどういうことなのか?本当に必要な時間は、何に使うべきなのか?
人によって、時間は上手く使いこなし、生き方を見直している人達が多いのも事実。
物は豊富になり、デジタル化された良い点も確かに多いが、インターネット情報に振り回されてしまい自分の存在価値が見いだせなくなり、歪んだ愛情を生み出す危険性をはらんでいることを私は危惧している。
今日のような無駄とも思えそうな時間が、今現在、最も大切な時間ではないかと思う。ただし義務で使う時間ではなく、身体の声、心の声、に素直に従うだけなのである。
休息や、自然に触れる時間こそが、人間本来持っている意欲や満足、充実に繋がるのではないだろうか。
例えば、6か月~1歳頃の赤ん坊の脳はスポンジのように柔らかく何でも吸収しようとする。言葉でも何でもそうだが、人間が密接に赤ちゃんとコミュニュケーションを取って行ったり、自分の無意識でやろうとする行動力、吸収力は底しなく大きい。しかし、これを人間ではなく、機械で、育てようとすると(言語スピーカーのような物)全く吸収しようとしない。人間のコミュニケーションで育てられない赤ちゃんは、サイレントベビーのように、全く笑うことや、泣くことも諦め、電灯だけをジッと見つめているだけの無表情な姿へと変貌するので恐ろしい。
今は、機械で何でも出来る。
人との繋がり、共有は、安易に出来るが、なかなかそこから先に育って行かない。伸びていかない。
コミュニケーションを取らなくてもPCやスマートフォンがあれば、寂しさを埋めたかのよな不思議な錯覚を起こしているのも事実である。
そして、何も実践していないのに、あたかも出来たかのような満足感に浸ることができるのである。
長文になってしまったが、人は結局、愛に育てられ、愛に支えられ、愛で満足するのではないだろうか。
愛は、形あるものではない。
自然の中で、ボーッと何も考えず、ただそこに居るだけの無駄に思える時間は、心を開放する時間であり、自分を取り戻す時間である。
秋は、特に寂しい感情が沸く季節。
だから、積極的に人と繋がろうとする。
人と繋がるのはインターネットの中だけであってはいけない。インターネットは、人と繋がる為の「橋渡し」にしか過ぎないのである。
いくら、いいね、を沢山貰っても、充分心は、愛で満タンにはならない。やはり真の愛は、直接会う事であると思う。
しかし、インターネットは、いくらでも誤魔化しが効く。だから、充分、インターネット上で交流を図りあって、コミュニティから参加した方が良い。
行動するには、リスクが必ず伴う。
コミュニティや人を選択するのは、自分の器。今の自分の状態、在り方であると思う。
自分の調子がバランス良い精神状態であること。
それは、本でも良いし、紹介してもらう知人でも良いし、自然の中で、頭を空っぽにするのでも良い。
英気を養い、人と繋がり交流しながら、結果や愛が生まれていく。
誰と繋がって、どのように広がって、どのように自分が成長するか?
一言で、「体感」しかないと思う。
沢山の体感と休息によって、潜在意識が変わり、自分も人も変わるのである。
先ずは、足りない愛を嘆くより、足りてる愛に気づいて行こう。
寂しさがあって、嬉しさがある。
闇があって、光がある。
寂しいのは、寂しくしている自分の潜在意識である。