ここは 遠い 遠い国の メロディが聴こえてくる
場所 だとしたら どうだろう
と
思いついたことを 綴ってみる
こうして 文章が 始まるのだろうか
始まっているのだが
それは 心とコラボ しているのだが
それに まかせるしかない
このメロディは こことは 波長が合って いるのだろう
または 合うように 流れるのだろう
なにしろ 変幻自在 だから
メロディは 重要だが 絶対ではないのは
書いていると 聴こえなくなり なんでもよくなってしまう
それで それが 必要条件だが 絶対条件ではない と *
論理みたいに 考えてしまう
僕らは 聴こえなくても 感じないわけではない
レコードは 音源のすべての周波数を 拾う
人間の耳には 聴こえないという理由で
CDは音源から 聴こえない周波数を カットしてしまう
最近の 研究では これを聴いているという 結果が
出ているらしい
それでなくても 僕らの体を 毎秒1万個の素粒子が
通過しているのは 信じられない
感じないからだ
だから 感じなくても 知らない事実もあり
感じているのに それに気づけない という事実も
あるわけだ
僕が 思うのは その遠い 遠い国を
感じているのに 気づけない事実に 投影している
だから 今まで 思いつかなかったけれど
その遠さに 寄り添ってみると
そこから自分が 見える そこで
僕は どこに いるのか と
距離や 位置を 計ろうとする 心の
動きが 出てくるのではないか そんな
気が する
そういう時 僕は 不思議な仮想地帯に いるのだ
地帯よりも この不思議な 広がりの感覚
世界に 広がるという しみじみと
行き渡る なんともいえない 感覚
このほうが とても重要に 思える
これは 命につながっている という
これが 僕が生きている 理由だ という
これが しあわせの あり方だ という
この世の 太初からのもの
明日に つなげようという 勇気
支え合っているものを 信じられる 感謝
それらが 膨大に
僕らの 小さな感覚では それこそ
永遠に つながると言っても おかしくない
そういう 果てしのない感覚に 浸(ひた)される
でも、最近思うんだよね。これって死と関係があるのでは、と。
死と愛が同じ境界にあるのを見たのが、最初の愛への疑問だった。
それは死の地帯にある「愛」なのだから、強力であるのは当然、美しく
理想であるのは当たり前だと、考えるようになった。これが愛が供給
される理由のひとつだというのは間違いない、と思う。
でも、仮説だけれど、これはこれまでに亡くなった膨大な人の愛への
想いが、死の地帯に仮想地帯を創造したのではないか、と。ま、バカげた
考えだと思って聞いてくれればいいので話すけれど、死んだ人たちが
愛したいという想いが集まって、膨大なかたまりをつくったのではないか、と。
仮想地帯なので、どんな形の愛も創造することができる。現実ではそうは
いかない。
僕は「愛」を創造できる、と考えたのはそこにどうしても人間の恣意を感じ
たからだ。だから、その愛は神様じゃなく、人間がこさえたものだと、僕は
どうしても感じてしまう。それで僕の心の容量はコップの一杯。愛の容量は
何億人分だろうか。海の水が流れ込むように、あふれてもあふれても
流れ込んできた。満足なんかとっくに通り越えても、さらに愛が注ぎ込まれる
という具合で、天国心境なのだ。それをかなぐり捨てるまでは、2年くらいの
年月が必要だった。これと離れるのは、絶対アホじゃなきゃしない、とわかって
いた。宝物を捨てるようなものだったから。
でも、進んだ。そうしたら、社会にあるいい加減さを学ぶことになった。自分の
精神レベルが落ちはじめたのか、と思ったがそうではなく、いい加減さが僕らの
社会人としての面目とかプライドとか、保ちながら心理の暗さに踏み込まない、
それなりのルールが見えてきた。
僕も周囲の人にはいい加減に付き合っている。心理分析をしていたら、どの人間
ともつきあうのは困難になる。社会で自然にできあがったルールなのだ。
で、 僕はここから出発すべきだと、それが2019年にはいってから書いてきた
ものでまだ多少、混乱しているのは否めない。
新しい時間質というものを考えるなら、実在すれば時間旅行タイムスリップは
可能になるし(今の発明された時間とそれに習慣づいた時間感覚のことでは
ない)、現実での愛は厳しいが実在させる創造力は、また可能性がある、
ということだ。他にもあるのではないか。
つまり、僕らの人間性の可能性ならば、無限大に考えることができる。う~ん、
うなってしまうな。これまた楽しからずや。人生って、進む限り、足りないものなのだ
と (いくらでも贅沢を言うが)思う。いつまでも・・。
* 論理では必要条件、十分条件、必要十分条件のことなので、
堅苦しい正確な意味は異なります。