少年は誘惑が多いのだろう | 陽秋の精神放浪記

陽秋の精神放浪記

目的を迂回するように、ここ1年ばかり徘徊します。

( 感慨は 困る

 

予定があっても  ポシャッて

 

感慨に 惹かれる

 

感慨という 誘惑が  多すぎる

 

感覚が  開かれ過ぎて

 

あらゆる事象、ものごとに

 

感動しすぎる

 

世の中が 美しく  醜く 

 

その何千と  何万と いう戯れ  群れるさま

 

当事者ではないという  気楽さから

 

なんでも 楽しめてしまう  非情さ 無情さが  好きだ

 

現実の 快楽は  恐ろしい

 

夢なら  なんとか  制御して

 

壮大な 絵を  描くことができる

 

絶大な 快楽がある

 

なんて ことだ  ・・なんて

 

どこへ 持っていかれるのか

 

どこへ  ・・・     )

 

 

スィングする  時計機械

 

いいねが 2つの  ブログ

 

俳優たちの  むなしい 運命

 

朝、起きたら 夕方だった  女がいなくなった日

 

明日は こないと わかった 処刑の日

 

泥に沈む コールター? コールターに沈む 泥?

 

ジャンセン  ジャンセン  ジャンセン

 

ジャンセンって  誰だ  誰だ  誰だ

 

突然、  もう一度チャンスを と言う

 

相手が ほんとうに いないのに  眼が覚めた

 

日本書紀まで 捏造して (全部じゃないが)

 

日本人を  つくろうとした  僕らのアイデンテティ、自覚

 

ここまできて  わかるなんて  嘘だろ!?

 

オーッ ダーリン、 僕らの恥を  救うことは

 

できないことなの  あなたは 恥知らずじゃ

 

ないよね?  おとうさん

 

日が落ちて  イェローなサンダウンが 青いとか

 

ないよね?  そこに 山が、とか

 

 

街って  見たことがある という街  多いよね

 

誰かが歩いた  自分が歩いた

 

そんなシーンが  ロンドンにも  あった?

 

世界の すべての道は  僕に 集まるという

 

想像は  楽しいし  それは  冗談には

 

思えないので  その 長い月影と  歩くよ

 

ワンダー r r r r  ・・

 

紙の幅が  恒星の距離に  見えるなんて

 

おかしいよね

 

僕は  きれいな世の中が  欲しくて

 

悲惨な 生き方に  あこがれてしまう

 

これは  病気なの?

 

今 考えて  考えても  なにを  どう?

 

という  そこが  わからない

 

昼間なのに  夜の星が  歩道橋に

 

刺さって 見えるんだ

 

なつかしい  胸の うづきが  離れない

 

これは  僕の心なの だろうか?

 

 

食卓での お祈りは

 

食べられれば いい、  ということなのか

 

お金に 感謝すれば いい、 ということ?

 

Mr.孤独さんって  何者?

 

カブト虫の 足を もがれたような 人のこと?

 

働かないで  遊戯場に通ってる人のこと?

 

これは ただのサークル・ゲームなのか

 

くるくる 回って  皆のところへ  戻ってくる、という

 

生活って  ほんとは  なんなのか

 

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

ねえ!

 

僕は だいじょうぶ?

 

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

平気なの?平気なの?平気なの?平気なの?

 

ああ!

 

平気なの?  ほんとに?!

 

 

そうだよね

 

考えることなんか ないんだ

 

与えられた仕事を して

 

規則を守って  人に とやかく 言われないようにして

 

穏便に 穏便に  人の気持ちに 遠慮して

 

皆のように  過ごしていれば

 

考えることなんか  ないんだ

 

 

そうだよね

 

考え過ぎちゃ いけないんだ

 

ここは いい加減にやるところで

 

波風 立てても

 

傷つくのは  自分だけだもの

 

損は  したくないよね

 

僕らは  利口に 立ち振る舞わなくては

 

せこい 世の中って

 

僕らのせいじゃ  ないものね

 

病気や  高齢化の  せいだよね

 

責任の問題じゃない

 

僕は  どこへ ゆけばいいのか

 

 

時々  寂しさに  襲われるけれど

 

これも

 

たぶん

 

気のせい  なんだろう

 

 

平気なの?平気なの?・・ って

 

ほんとに? って

 

それも

 

気のせい  なんだろう

 

 

Please  Give me a  Song 

 

Baby  No Good !

 

No Good !No Good !No Good !

 

No Good !No Good !No Good !

 

No Good !No Good !No Good !

 

Yeh !

 

Yeh !

 

Yeh !

 

 

 

 

 

 

* 僕らは同じところをぐるぐると、ずっと回っている。それさえどういうことか

 

 誰かひとりの説明では足りないだろう。それらは細切れの批判やエッセイや

 

 時には論文だったり、マグカップの影や法律の影とかもろもろの影とかを

 

 不十分な光で照らしだす。光と影はそれぞれの見えるものへの形容に

 

 過ぎない。光だけでは眩しく、影だけでは真っ暗で、それぞれなにも見えない。

 

 照らされたもの、隠されたものは光の当て方で、影にも明るくもなる。

 

 僕らの世界もこの世もある意味、保障されている。もちろん、自分でわが身を

 

 傷つければ死に至ることもある。保障とは、僕も言い方に迷う。わかればわかるほど

 

 迷うということがあるのだ。六面体とか、二十面体とか変形のキューブをつくれるが、

 

 それぞれの窓から入る光が、中心に集まってどんな色になるのか、これを

 

 一言で言うのもまた難しい。見えていても、なんとも言い難い。

 

 そういう矛盾のかたまりが保証という言葉の中に埋め込まれている。その

 

 ひとつは生死を越えている、と言ったら、もうあとはお手上げになりそうなのは、

 

 わかると思う。そういうものがわかり始めると、言葉になっていない、それを

 

 言葉にしていない事象というものが、多く見えてくる。それはもう僕らが通常に

 

 その感覚を受容できない、はっきりした感覚器官がないということだ。

 

 特別な、共感覚の人でも青い色を三角に感じる、と例えることができるが、

 

 それを例える言葉はない。

 

 結局僕は、それを「それ」とかこれを「これ」と陳腐に、貧しく言っている。

 

 なかば五感でわかっているものを伴うように表現することで、不分明を

 

 免れているが、そのためにいくら表現しても、終わらないという矛盾を

 

 抱えてしまっている。中心にあるのは同じものであったりする。

 

 僕らは自分という世界に住んでいる。自分が生きるというのは素晴らしいことである。

 

 そして、自分の性質の相方に「知」があって、それは哲学者などもいろいろな

 

 見方をしているが、行動に直接関わるものではないのも、見通している。(例えば、

 

 ハイデガー、「ヒューマニズムについて」)

 

 でも、人間にとって「知」はすべてではない。それが手のように便利な道具

 

 だったとしても、右手だけゾウの足ほどに大きくなってしまったら、歩くのも

 

 困難になり、全体では都合の悪いことになってしまう。手が悪いわけではない

 

 一時的に外科処置が必要になったりする。その全体を見ることが僕らには

 

 できにくくなっている。それは頭脳が感覚から入る情報をすべて記憶しても、

 

 すべては処理できないので、多く端折って中心的な情報しか注目させないからだ。

 

 (例えば、続けて同じ曲を聴いていると、飽きるのはここから来ている、と思う)

 

 認識したり、答えが出たと思うと、終わったと感じてしまう。

 

 そのいい加減さは生きる上で便利さや直感を発達させるが、多くの生きる実感を

 

 捨ててしまう。一生見ないかもしれない記憶に膨大に残されたまま。

 

 だから、いろいろな苦しい活動・行動を通じて、その認識の壁を破って、僕らはそれを

 

 部分部分で取り戻している。 それには自然への挑戦、芸術や福祉活動などへの健全な

 

 奉仕を通じてだが、それらはすべてひとつにつながったもので、ひとつのさまざまな面だと

 

 (これも部分的言い方だが)言うことができる。

 

 そのひとつは複雑な設計図・さまざまな水流・それぞれの数式の群れ・感情の無限式

 

 の波といった無限にからまったものを、ひとつとして一瞬で感じること以外にない。それは

 

 自己という自分と交換すると現れる。だから、それが必要だという動機の与えられる境遇

 

 の人も限られるのだろう。理論的には誰でも可能なのだが・・。

 

 この世には(言っては誤解を受けるが)答えがない、間違いがない。僕らの希望の

 

 通りにはならないだけで、すべてがその通りに正解の答えになる。単純に予測が

 

 甘ければ、異なる答えが出るだけのことだが・・。そして、それがそうであるのは、

 

 正しい予測というのは、僕らの発明した、約束事の中でしか起きないことで、すべての

 

 事象は予測がはじめから不可能だからだ。でも、正しくの意味で科学的にやれば、

 

 今の期間・時代の法則は得られる。ニュートンの力学が500年使えたように。ミクロの

 

 宇宙ではニュートンも相対性理論もほぼ役に立たなかった。それを説明できた

 

 量子力学は今の常識の感覚を捨てなければ、指示することができない奇妙なふるまい

 

 をするものだったから。

 

 心も奇妙なふるまいをする。僕らの常識はつうじない。言えるのはこれくらいのことだけ

 

 だろうか。言葉って、心に関しては情けないね。  ホント。