「竪穴住居の埋土からイネのプラントオパールが見つかったらしい」 長縄手〈ながなわて〉遺跡という縄文時代中期末(約4000年前)の集落跡(「境界の縄文集落」をご覧ください)を一緒に調査していた江見正己〈えみまさみ〉さんからそう知らされときは、私も正直驚きました。見つけたのは、岡山県立博物館の副館長(当時)であった高橋護〈たかはしまもる〉さんです。高橋さんは縄文時代に造詣の深い研究者で、このころは稲作の始まりに関心を持ち、すでに縄文時代中期の土器からイネのプラントオパールを見つけていました。プラントオパールとはイネやススキなどが持つガラス質の細胞で、長く土中に保存されることから稲作の手がかりとして注目されていました。高橋さんは、その後も岡山市の朝寝鼻〈あさねばな〉貝塚や彦崎〈ひこさき〉貝塚で縄文時代前期の土層にイネのプラントオパールが多量に含まれているのを確認し、稲作が約6000年前までさかのぼる可能性を主張したのです。

 ところが、各地の縄文土器に残る種子などの圧痕を型取りして調べたところ、稲籾〈いねもみ〉が現れるのは縄文時代晩期後半(弥生時代早期)以降であることが明らかとなります。縄文時代後期後半とされていた総社市南溝手〈みなみみぞて〉遺跡の籾痕土器も、現在では晩期後半まで下るものと考えられるようになりました。どうやらイネのプラントオパールはあまりに小さいため(1/20ミリ程度)、土層の隙間を移動したり多孔質の縄文土器に入り込んだりしたらしいのです。

 こうして、縄文時代の稲作は幻となりましたが、ダイズやアズキは早くから存在したことが明らかとなり、縄文時代に植物栽培が行われていたのは確かなことのようです。

 

 

長縄手遺跡から見つかったイネのプラントオパール(岡山県教育委員会2005「長縄手遺跡」から)

 

 

 

南溝手遺跡の籾痕土器(岡山県教育委員会1995「南溝手遺跡1」から)