旭川西岸の岡山平野では津島遺跡から北方地蔵〈きたがたじぞう〉遺跡にかけて東西1.2kmにもわたり弥生時代前期の水田跡が確認されていますが、このころの集落跡は津島遺跡や津島岡大遺跡が知られているにすぎません。こうした集落のあり方とはおよそ不釣り合いな水田の広がりについて、作付けと休耕を繰り返しながら耕作地を移動した結果ではないかという意見があります。
休耕によって生産力の回復を図る高度な農法は、漢代の農書にすでに見えるそうです。しかし、奈良文化財研究所の町田章〈まちだあきら〉さんは除草用と見られる木製農具の検討をもとに、こうした農法が九州に伝わったのは弥生時代中期のことで、瀬戸内から近畿に及んだのは後期のころではないかと推定しています。そうでなくとも稲作が伝わったばかりの段階において、貴重な労働力を投下して開いた水田を一時的にせよ放棄するというようなことがあり得たかどうか、私はいささか疑問に思っています。ひょっとすると、生産性が低いながらもあまり労働力を必要としない稲作(例えば不耕起栽培)を広域に行うことにより、一定の収量を確保していたのではないでしょうか。
(岡山大学埋蔵文化財調査研究センター2013「シンポジウム『水稲農耕のはじまりを考える』発表記録」)
北方横田遺跡の弥生前期水田(岡山県教育委員会1998「北方横田遺跡ほか」から)
