天正10年(1582)、織田氏と毛利氏が中国地方の覇権をかけて争った備中高松合戦(備中高松城水攻め)は、羽柴(豊臣)秀吉が天下人へと歩みはじめる転機となったことで知られていますが、この合戦に加わった国人(在地領主)の居館跡が見つかっています。備中高松城跡の西約5kmにある総社遺跡は、国道180号バイパスの建設に先立って平成13~15(2001~2003)年に発掘調査が行なわれ、周囲に幅9.8m、深さ2.2mもある堀や土塁を巡らせた居館跡であることが明らかとなりました。部分的な調査のため全貌は明らかとなってはいませんが、過去の調査成果などから南北150mに及ぶものと推定されています。この辺りには「国府〈こう〉」という地名が残っていて(「備中国府跡はどこか?」をご覧ください)、戦国時代にこの地に拠った国府氏の居館跡と思われます。

 『中国兵乱記』には、備中高松城に籠って戦った国府氏として市正、三郎兵衛、与三右衛門の名が見えますが、とりわけ市正は城主清水宗治〈しみずむねはる〉の信頼が篤かったようです。『陰徳太平記』によると、国府市正(この本では高市允〈こういちのじょう〉)は城兵の助命と引き換えに切腹する宗治の介錯〈かいしゃく〉をした後、その首を秀吉から検使に遣わされた堀尾茂助(吉晴)に引き渡したうえで自害したと言います。

 ところで、居館跡の調査成果を紹介するパンフレットでは、国府市正を「こういちまさ」と読ませています。どうやら市正を実名(諱〈いみな〉)と考えているようですが、果たしてそうでしょうか。備中高松城の諸士は松田左門、荒木三河、難波伝兵衛、片山助兵衛、林三郎左衛門などと通称(仮名〈けみょう〉)で記されていて、国府市正も市正〈いちのかみ〉という官職名を通称として用いていたものと思われます。この官職は都に置かれた市を監督する市司〈いちのつかさ〉の長官にあたり、市正を名乗った人物としては豊臣秀吉に仕えた片桐且元〈かたぎりかつもと〉がよく知られています。このころは親しい間柄でもない限り相手を実名で呼ぶことは避けられていて、古文書にも通称で記されることが多いのです。 

 国府氏は備中守護代石川久式〈いしかわひさのり〉が天正2~3年(1574~75)の備中兵乱で滅んだ後に清水宗治に従った国人と見られ、『陰徳太平記』が記す高市允という名前は宗治の「郎党」という設定に相応しく(「いちのじょう」は市司の三等官)書き換えられたのではないでしょうか。

 

上空から見た総社遺跡(岡山県教育委員会2007「総社遺跡ほか」から)

 

発掘された総社遺跡の堀(岡山県教育委員会2007「総社遺跡ほか」から)

南から見た備中高松城本丸跡

 

備中高松城本丸跡にある清水宗治首塚

 

 

備中高松城家中屋敷跡にある清水宗治胴塚