父の怒鳴り声の奥にあった“待ち続けた子ども”

病院で父は何度も怒鳴る。

「早く治療しろ!」
「早く終わらせろ!」
「治療がないなら家に帰らせろ!」
「いつまで待たせるんだ!」

時間がわからない。
状況も理解できない。でも、その言葉を何度も聞くうちに、
私は別の問いが浮かんできた。

父は、誰を待っているんだろう?

父は、父の親たちとどんな約束をしてきたのだろう

子どもの頃、父は
父の親や、大人たちと
どんな約束をしてきたのだろう。

「あとでな」
「今は無理」
「そのうち」
「我慢しなさい」

大人にとっては
その場しのぎの言葉。

でも子どもは違う。

子どもの中の子どもは親が大好き、嫌いになんかなれない。
約束を守ってくれる日をずっと待っている

子どもは、
怒らないよう
文句を言わないよう
期待を裏切られても、誤魔化しながらまだ待つ。

「今日はダメでも、いつかは」
「今は無理でも、ちゃんと見てくれる日が来るはず」

そうやって
何年も、何十年も待つ。

守られない約束でも、
子どもは自分を責めて待ち続ける。「早くしろ!」は、今の怒りじゃない

父の
「早くしろ!」
「いつまで待たせるんだ!」

それは
病院へのクレームではなく、
今の私たちへの要求でもなく、

ずっと待たされてきた子どもの叫びなのかもしれない。

待つことに慣れすぎて、
もう限界なのに、
それでも待ち続けてしまった人の声。大人になっても、待たされ続けた感情は消えない

父は大人になり、
父親になり、
責任ある立場になった。

でも
子どもの頃に置き去りにされた感情は、
解決されないまま残っている。

理性があるうちは、
「仕方ない」で抑えられた。

でも
せん妄や認知症で
理性のフタが外れた今、

待たされ続けた怒りと悲しみが、そのまま出ている。約束を破ったのは、父じゃない

父は
わがままだったわけでも、
短気だったわけでもない。

ただ
約束を守ってもらえると信じて、
待ち続けた子どもだった。

その痛みを
誰にも回収してもらえないまま、
大人になってしまった。私は、同じ待ち方はしない

この気づきは、
父を正当化するためのものじゃない。

怒鳴りがつらかった事実は変わらない。

でも私は思う。

「待てばいつか報われる」
その生き方を、もう引き継がなくていい。

子どもに
その場しのぎの約束をしない。
自分自身にも、嘘の希望を与えない。

待ち続ける人生は、
ここで終わりにする。怒鳴り声の奥にいるのは、ずっと待っていた子ども

「早くしろ!」
「いつまで待たせるんだ!」

その声の奥にいるのは、
怒っている大人じゃない。

信じて、待って、我慢してきた子ども。

それに気づけたとき、
怒鳴りはただの騒音ではなくなる。

そして私は、
その連鎖をここで終わらせる。
その言葉を“本気の約束”として受け取る。