証言
柳光烈 ― あなた様の日に、私の日に
11.み旨のために文学生活を脇に置いて

 勤勉な人なら十年で五冊は出す詩集を、私はわずか十年ごとに一冊出しただけだった。そして従軍時代、記念詩を書くことにうんざりし、軍務から解放されたなら二度と記念詩は書かないと誓った。しかし統一教会に入ってからは、純粋な作品を差し置いて、専門的に記念詩ばかりを書いたと言っても過言ではないほど、多くの記念詩を書いてきた。

 しかも任務が文化部長、編集室長、出版社の社長であったため、「出しなさい」と言われる先生のみ言葉集や伝道用書籍を差し置いて、自分の本だけを出版することに良心の呵責を覚え、自分の本を出そうという考えは次第に遠のいてしまった。

 入教して三年ほど経った頃、母が亡くなったという電報を受け、故郷へ帰った。母の遺体を墓地へ運ぶ道中、馴染み深い村を通り過ぎながら、私は村中に響き渡るほどの大声で泣いた。これほど親不孝をしておきながら、さらに天に対してまで親不孝を重ねれば、私はいったいどこの天地に受け入れられるのだろうかと思ったからである。

 父は厳格で品位のある人だった。私一人のせいで家族全員が離散しかけ、父は老後を山寺に託そうとしていた。しかし生活に苦しんでいた私は、遺書のような手紙を送ったことがあった。すると父は、「み旨が良いからと、一人息子を精誠込めて育て、すべてを捧げたのに、今さら飛んできたのが、せいぜい遺書なのか」と、まるで外交文書のように品格と論理を整えた文章を書き、協会長へ送ってきた厳しい父であった。

 この手紙をご覧になった先生は、「光烈(グァンリョル)のお父さんは、光烈よりも立派な方だ。この次、“父親賞”を与えることがあれば、全部光烈のお父さんに差し上げなければならない」と語られた。

 しかし私は、一九七四年のアメリカ・ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデン大会、一九七六年のアメリカ・ワシントンにおけるワシントン記念塔大会、一九八二年のニューヨークでの二〇七五組合同結婚式、そして同じニューヨークでの先生の第一次判決など、歴史的で意味深い現場に立ち会う恩恵を与えて下さった先生に、深い感謝の念を抱いている。

 十五年ほど前、青坡洞一街教会の礼拝堂二階で、先生と言葉を交わしているうちに感情が高まり、「これから私は、先生に何一つして差し上げられることがないでしょう」と、何とかして恩恵を与えようと差し伸べられる先生の御手から逃れられない自分の姿を、号泣しながら訴えたことがあった。

 ある飲食店で、「人は地獄に行くとしても、やりたいことを思う存分やって行けば、思い残すことはないだろう」と話した世間知らずの私に、先生は「光烈が地獄がどんな所か知っていたなら、そんなことは言えないだろう」と語られた。本当に私は、性格も未熟で、心も大きく傷んでいたのである。

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