「王の王と白龍」
眠る人類に向けた“天の呼びかけ”であり
神様の前に立ち帰るためのメッセージです。
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証言
柳光烈 ― あなた様の日に、私の日に
10.校正に9か月を要した問題
1966年4月20日頃に校正を終えた。つまり、9か月を要したのである。
校正期間があまりにも長かったため、東亜出版社の公務局長が法定賠償を求めた。しかし、その件について協会長と共に出向き、十分に理解を得て、無事に解決することができた。
このような出来事は、私が関わった47年の出版人生の中でも、初めて経験することだった。
1966年5月1日、『原理講論』はついに日の目を見ることとなった。
続いて日本語版が出版され、その後、崔元福(チェ・ウォンボク)先生によって一字一句漏らさず翻訳された英語版も出版された。さらに、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語など、世界各国の言語へと翻訳されていった。
私は御旨と共に生きようとして、生まれ持った職業である文学活動を脇に置いてきた。もともと私はそのような人間だった。
解放前から学問に励み、13歳になる頃までは「必ず王になる」という一念を抱くほど徹底した個人主義者であり、自己陶酔の中で昼夜を過ごしていた。
小学校を卒業し、15歳の頃からは家族のために尽くし、一家を豊かに育てることに力を注いだ。
これ以上できないほど熱中し、近所や親戚のためであれば、自分のお金を使ってでも飛び回り、世話をした。
終戦後は祖国と民族への思いに燃え、道を歩きながらも、ごみや石などの障害物を取り除いた。
また、石橋が壊れている所があれば、朝の出勤途中に立ち止まり、一生懸命に修理した。そして、その後を通る人々が靴を脱ぐことなく、自分の置いた石を大股で渡っていく姿を見ながら、大きなやりがいを感じたりもした。
毎朝、家の近くの道路を50メートルずつ掃除しては、自分の祖国の一部がきれいになったことを実感した。
また、中学1年生の時には班長でもあり、家も近かったため、1年間、生徒たちを送り出した後、夜11時を過ぎるまで机を前後に動かしながら、一人で教室掃除をしたこともある。
入教後も、ずる賢い後輩たちが口笛を吹きながら帰る中、早い時は早いなりに、遅い時は遅いなりに、青坡洞の礼拝堂の床を毎朝雑巾がけして暮らした。
(もちろん、私以上に苦労した方々は、李秀卿〈イ・スギョン〉氏をはじめ、数え切れないほどおられる。)
そして原理試験は、一度目も二度目も落ち、三度目でようやく合格した。
伝道師修練会にも初回から参加したが、決して優秀な成績ではなかった。それでも合格することはできた。
私は、人々のように試験や修練で名誉合格者や認定合格者になりたいなどとは、夢にも思わなかった。
私は27年間、文化部長として走り続けてきたが、賞を一つも受けたことのない平凡な人間であった。
また、普通なら2年で終える大学院を、満20年かけて卒業した学習不振児でもあった。
だから、長い歳月が過ぎたとはいえ、他の人々のように文学活動を立派に成し遂げることができただろうか。
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