母が10歳の時,祖父は亡くなった。

 大正71918)年12月末,韓国の京城(現,ソウル)で校長をしていた小学校の職員室から火災が起きた。職員室の隣は奉安室だった。火災を知り駆けつけた祖父は御真影を奉遷すべく奉安室に飛び込んだが,煙と熱気のために倒れたのか焼死体として発見された。御真影を焼いてしまったので,申し訳ないと自殺したとの説が強い。

 実際には宿直の先生が御真影を奉遷していたのである。

 殉職美談は全国の反響を呼び直ちに映画『嗚呼鈴木校長』と題して,幾多の生前の逸話が巧みに表現された教育映画となったそうである。

 大阪城にある忠霊塔に名前が刻まれていることは大阪城に母と行った時に教えられた。

 小学校の校歌を自分で作詞されたり,切抜き細工の本を少なくとも4冊出すなど多才な,偉い人だったのに,このような亡くなり方をされたのは誠に残念である。

 

 今年も大きな真っ白な花房の紫陽花が満開です。北アメリカ東部の原産だそうですが,園芸品種にされたこの紫陽花は花房が30センチほどにもなります。近年あちこちで見られるようになりました。

写真は息子の家に咲いているものですが,木戸のその先までいっぱい咲いています。こんなにびっしり植えたのにはわけがあります。

東京都文京区の条令で,新築の際は敷地に応じて,植物を植えなければならない本数が決められているそうです。まっすぐ大きく伸びる木は数本植えられていますが,規定の本数を稼ぐために,紫陽花,つつじ,さつきをびっしり植えることになったのです。

仏壇の右側の紫陽花は,よそから持ってきて植えたものですが,このアナベルに押されて,まるで小さくしか育っていません。





 

 

  今日は定期健診に埼玉病院に行ってきた。

   いつも埼玉病院に行った日のお昼は、介護施設の朝、昼、夕の食事をキャンセルしていた。そして外で、お寿司なり、お蕎麦なりを食べ、夕食用のものを買って帰っていた。

  今日もそのつもりで朝、昼、夕の食事をキャンセルしていた。

  しかし、今日の昼食にはウナギが出るとのことであった。どうせ量はほんの少しだろうが、どんなものが出るか見てみたくなって、昼食、夕食の食事をキャンセルしていたのをキャンセルした。

  ウナギのチラシという話だったので、小さく刻んだウナギを混ぜたチラシと思っていた。

ところがどっこい、出てきた夕食は写真のようなもので、びっくり仰天した。

切り身も大きいが、かなり肉厚だった。

   ここに6年住んでいる人もこんなウナギが出たのは初めてだとびっくりしていた。

美味しくいただくことが出来た。

今日1217日からマクドナルドの「マックフライポテト」がSサイズのみとなる。このニュースを知って初めてアメリカの港湾ストの大きな影響を知った。こんなニュースが今まで報じられたのだろうかと信じられない気がする。今回のマックの措置は,10月下旬から始まった米西海岸における港湾労使交渉が長期化した影響のためと見られるとのことである。

しかし,もう今年の5月頃から次のようなニュースがあったのである。

513日のニュース

西海岸の港湾を利用する船会社やターミナルオペレーターで構成れる太平洋海事協会(PMA)と国際港湾倉庫労働者組合(ILWU)との労使交渉が512日から始まった交渉が妥結しない場合は労働者によるストライキに発展し,港湾機能に支障が出る可能性がある。

また,香港紙「文匯報」の1119日付報道によると,アメリカ・ワシントン州タコマ港は労使紛争による大規模なストライキが起こり,アジア,カナダ,メキシコに輸出する予定の800万本~1000万本のクリスマスツリーが港湾に滞留し,クリスマス前に目的地に配達できない恐れがある。

これで思い出されるのが,私が留学を終え帰国する時のことである。

 196231411時付で,家に次のような絵葉書を出している。

 「いよいよ本日アメリカを発ちます。荷物も無事乗ったし,天気も上々,体の調子も良い。328日に無事着くでしょう。その後の事は,手紙に書くより帰ってから話そうと思うので,特に書くことなし。とにかく元気である」。

 その空いた所に,「港湾ストライキのため,いつ船が出るか分からなくなりました」と追記されている。

 出発間際になっての港湾ストライキは大きなショックであった。もうお金はいらないということで,所持金はほとんどなしであった。

 結局1週間後に,飛行機で帰ることになった。お金が無くなっていたが,たまたまアイオワ大学にいた教え子の所に立ち寄った,文部省のフルブライト団長が同じ船ということで,急遽,4日ほど出発を早めて一緒に帰国することにしたのが幸いした。1週間ほどのホテル代・食事代,船と飛行機の差額など,すべてフルブライト留学生30人分と一緒に払ってくれたのである。

 この時の事を書いた数日のブログは,通常の何倍もの人が見てくれた。普段は毎日ブログを見ない方が,お金がなくなった私がどうしたかと興味を持ったのであろうと思う。

 羽生善治九段、永瀬拓矢九段に敗れ藤井聡太王座との黄金カード実現ならず。

 藤井聡太王座への挑戦権を争う、王座戦挑戦者決定戦、羽生善治九段(53)対永瀬拓矢九段(31)戦が22日、東京・千駄ケ谷「将棋会館」で行われた。午前9時から始まった対局は、午後8時15分、後手の永瀬が114手で勝ち、挑戦権を獲得した。永瀬は前期4期連続で保持していた王座を藤井に奪われた。6年連続6回目の登場となる今回は、藤井と立場が入れ替わってのリベンジマッチとなる。第1局は9月4日、神奈川県厚木市「元湯陣屋」で始まる。

 敗れた羽生の、藤井と昨年王将戦以来となる頂上対決はなからなった。タイトル獲得通算100期への挑戦も持ち越された。

 今月9日、羽生九段の新型コロナウイルスの感染が発表された。マスク姿で対局に臨んだが、永瀬に屈した。

 今年10月で創立100周年を迎える日本将棋連盟会長として関連の仕事をこなしながら、タイトル戦の前夜祭や就位式でのあいさつ、自身の対局と多忙を極めながらタイトル戦挑戦が手の届くところまで勝ち上がってきた。会長在職時のタイトル戦挑戦例としては、故大山康晴15世名人が1986年(昭61)の名人戦に登場している。38年ぶりの快挙達成とはいかなかった。

 疎開して最初に借りた家は農家の広い家だった。庭の前は畑になっていて野菜が作れ,リンゴやおいしいブドウの木もあった。裏庭には大きな柿の木もあった。農家なので土間も広く,台所もゆったりしていた。

 中学1年の昭和23年,そこに家主か,親戚の人が住むことになって,私の家族は引っ越さなければならなくなった。

 適当な家がなかったのか,同級生の大きな屋敷の奥座敷を借りることになった。隣の部屋は,全く使われていなかったのでそこも貸してくれたらよかったのにと今思うがその時はそんなことは思わなかった。襖の隙間から除くと,文学全集などの本が幾つもの本棚にびっしり並んでいるのが見られた。既にご主人は亡くなっていたが,先生だったそうである。

 廊下があり,その奥に2つの部屋があり,その奥に廊下があった。荷物を運び込んだら,7人がやっと寝られる狭さだった。裏庭は広かった。用水沿いに台所として簡単な部屋を作った。狭い部屋で7人がやっと座って食事をした。トイレは上がり口の廊下の端にあったが,風呂はない。洗濯などは用水でしたが,顔を洗うとこなどなかったと思うが,どうしていたか,また食事用の水はどうしたかも覚えはない。多分広い庭に井戸があったのだと思う。

 狭い部屋で,兄に,曜日の英語の発音を何回も教えられたのを覚えているが,そのほか部屋の中で何かをした覚えは全くない。

 広い素晴らしい家から,まるで狭い住処へ移ったが,別にどうということはなかった。

 疎開先の小・中学校の同級会の次の日,200477日,疎開していた村(長野県上田市と戸倉上山田温泉に挟まれた村)の従兄の家に行った。

 一昨年も行って,従兄に村の隅々まで案内されて,村の変わりように驚いた。隣の坂城町と合併して今では町であるが,かつて千曲川沿いの広大な田圃があった所などは歩道のある綺麗な本当の街になっていた。

 あきれるほど変わった場所は,櫛の形をしたびんぐし山という裏山である。小・中学生であった疎開中,この山で,キノコ,ワラビ,フキなどをたっぷり獲った場所である。ここで殆ど人に会ったことはなかった。これらがよく生えている場所を知っていれば,収穫して何日か後に行けば,同じ所にまたたっぷり生えているのである。我が家の食の宝庫だった。

 そんな山だった所が,2002年に「ふるさと創生事業」の1億円で大開発され,山の頂上に温泉(1997年に温泉が近くに湧出),テニスコート―,屋内ゲートボール場,公園などが造られたのである。一昨年行った時は温泉が,リニューアル大改装中で温泉に入れなかった。今回はこの温泉に入ることが主目的だった。その温泉の設備の素晴らしさ,綺麗さ,露天風呂からの景色の素晴らしさを楽しむことが出来た。とにかく低いとはいえ山の頂上である,村が見渡せ,千曲川の向こうの山の中腹には高速道路が見られた。

 大浴槽,イベント風呂,水風呂,サウナ,岩風呂,熱風呂,寝湯,石風呂,五右衛門風呂などがあった。また,水中運動ゾーンとして楕円形プールもあった。

 150畳の大広間で食事をしたが,レストランもあった。ここで,前日同級会に出席していた人が兄と待ち合わせしたとしていたり,同級会に出席しなかったが杖をついてやっと歩いている同級生が家族に連れられてきていたりした。従兄は何人もの知り合いに会っていた。

 従兄は3万円のパスで,毎日夕食前に来ているそうだが,1日当たり100円もしないことになる。

 売店は実に広く品ぞろえが豊富だった。よその町からたくさんの人が集まってくるようである。

 今年になって下水道が完備したそうである。貧乏村がますます住みやすい所になるようである。千曲川の対岸に国道があるが,村を通る新しい国道の工事が近く始まるようである。

 村は変わったが,まだまだ自然のある,千曲川と山に挟まれた素晴らしい村である。来年も行くことを楽しみにしている。


 








 2014年4月6日

 今朝,会社に來る途中で聞いていたラジオ,井森美幸の「ググっと群馬」で,日本一の名湯として,万座温泉が紹介されていた。

 何が日本一かというと,標高が一番高い温泉だそうである。標高は1,800mだとのことである。

その万座温泉で思い出したことがある。

 アメリカに留学する少し前の大学4年生の時に親父と2人で,この温泉に一泊した。

 一人で,男湯の露天風呂に入っていたところ,突然,一人の女性が入って来て,私を無視して,こっちの方がいいわよと仲間4,5人を呼んだのには驚いた。若くはないがそう歳でもなかった。騒々しい,ずうずうしい女どもに呆れて,私は早々に出て来たことを思い出した。

 現在,400頁強の自費出版本を手掛けている。本文はコンピューターですべて打ち終わり,著者の校正も終わっているが,まだ資料や,表は打ち終わっていない。これから気合いを入れて少しでも早く終わらせたいので,ブログの掲載はしばらく飛び飛びになるかもしれません。

  小学校3年生から中学2年生まで疎開していた長野県村上村(現在は坂城町と合併)の小・中学校の同級会である。

 200476日,隣町の戸倉上山田温泉の荻原館で開催された。

 同級生は2クラスの80人だったが20数人は亡くなっている。会は毎年開催されているが,村の3つの集落のそれぞれの同級会も毎年開催されていたが,何年か前からそれは止めになってしまった。

 7879歳の年寄りになってしまったので,よく集まるなと思っていたこの会も,今回はたったの11人だった(女性3人)。出席予定の何人かは体調が悪くなったと言って欠席された。やむを得ないことである。

 先日のブログに書いたように,毎年東京で集まっている同級会は13人だったのに今回の方が少なかったのは残念である。

 思い出話はいつも同じようなことが主だが,そんなことをしゃべるのも結構楽しいものである。私は大いに飲ませてもらったが,皆酒量が少なくなったようである。来年,再来年の幹事まで決め,日にちも決め,旅館の予約までした。皆元気で集まれればいいと思う。

ある本によると,ボケないためには,クラス会で馬鹿話をすること,出来れば幹事をやるといいと書いてあった。また来年も行こうと思っている。