養われると言えば、誰しも幼い頃から親にお世話になるわけで、そこで僕も外見上はスクスクと育った。


そして世の中の色んな人と関わりを持つ中で、知人やそうでない見ず知らずの人にも力や能力を「養って」もらってきたわけです。


培われた能力でなんとかここまでやる事ができた。大袈裟な話で進化してきたといっても、今現在を乗り切らないと明日は違った人生が待っているやも知れず、周りの人から常に学ばないとというエネルギーはずっと持ち合わせないといけないようです。




最近は緊張して声がかすれ、脚が震えるというところまでいくことはなくなってきた。それはやはり後20年くらいで労働というものは出来なくなり、もしかすると生きてこの世にはいないかもしれないということを考えると、後少しで全て終わりではないかという思いがいい意味でもそうでなくても脱力気味にさせるということです。


時代物の小説で、戦国時代に戦い抜いてようやく大名に収まった人間が江戸で過ごす下りで、身の回りの世話をする使用人と言葉を交わす場面ではあまり昔の戦の勇ましい話などは出てこない。「現役」は終わったのだというその辺りを読んだ感想としては穏やかな、脱力した雰囲気を感じたものでした。


身体的には緊張してももはや若い時のような勢いは出せない。仕事などでは子供や下手したら孫くらいの世代とよーいどんで競争しても勝てるわけがない。人生を過ごしてきた知恵というものがあるとか言われますが、僕など自分の処世術で少し上手くいくようになってきただけで、他人様に講釈垂れるものは何もありません。


とはいえ現在でも食べて生きていかなければならないのだから、緊張した場面に出会うような機会に恵まれる方が有意義なのかもしれない。


何かに取り掛かる時には始める時は余程楽しそうなことではない限り、気が進みません。


ただそれが始まってしまうと止めるというか、動きを中断することが今度はなかなかできない。普段やっている事だったら余計に道筋が決まっていることが多いから流れに乗ってキリのいいところまで取り掛かることになる。


僕の場合は中断する理由として体調と時間がある。かなり身体がキツくなる前にもう動きを止める。しんどくなるまで飛ばしてしまうと、頭がその行動はとても辛いものだと認識してしまうので、次の機会が億劫になってしまいます。


そして決めた時間が来ると動きを止める。昔から交友関係などで時間を取られる事が圧倒的に少なかったので、自分本位でタイムリミットを設けることにしている。朝のジョギングや、副業の配達もそうです。そのリミットをこなす事が一種快感でもあります。