僕が身に受けた物事に対する感想というものは、8年前からやっている仕事に就いてから少し変わってきました。


この間ある事業所でお話をする約束をしてから、電話で受けた日時にそこへ出かけたのだが、今まではメールでどの時間にどの場所に来ていただきますという連絡がいつも事前に来ていたのが、今回は来なかったのでそれを相手側に話すと、すみません色々バタバタしていて忘れました。申し訳ありませんと言われる。


まあ口では気にしてないですよとはいつも言ってた事だが、今までは腹の中ではムッとしていたものが、不思議と全く今回はありませんでした。


とにかく相手のことに配慮して、動いていくということが僕の仕事の周りの人でもできないことは多くて、僕自身も結構迷惑をかけていることを毎日繰り返している日常なので、そりゃ忙しかったらそうなるよな、とわかりすぎるくらいにわかるのです。


誰も彼も不完全です。白とも黒ともつかない灰色の世の中を少しでも得になるように泳いでいる自分がいつもいます。



時々家に帰るまでに、また夜家にいる時に、今日一日のことを考える。この頃は楽しかったことなどは思い返して悦にいることもあまりなくて、逆に辛いことなどはあれはどうしたら良かったのだろうと、ジクジク思い悩む。


でもどちらにしろそんなにインパクトのある日常を過ごしているわけでもないし、嬉しいこともその逆も徐々に消えていくものだとわかってくると、その折々で楽しい、美味しいことを味わって何も考えないで事を進めることが多くなってきました。


一つは先の事を考えても、対策がほぼ予想通りにうまく行った試しがない。せいぜい1時間前に思いつきます。酷いことが起こったとしても慌てることが小さくなってきた。そこそこダメージがあったとしてもその失策をカバーすることは、「その場」で無闇に動かずに慌てながらでもいいから次の機会には挽回すればいいのです。




子供の頃から必要以上に対立を嫌った。というより怖かったのかもしれません。


そういう事から、対人関係そのものをほとんど避けるようになってしまった。この感情は後々にわかってきたもので、人間であるのだから仲良くなったら楽しいのは当たり前のことで、会話の食い違いとか、競争やせめぎ合いなどが駄目でした。他人より自分は常に劣っているという思い込みがあったのかもしれません。


それから長いこと話を無理に合わせるような付き合い方になっていきました。自分はこう思う、こうしたいという主張がないまま今日まで来たので、今後のためにこういうプランを立てていきたいという独りでも明確なものは作れない。現在そこそこ平和ならいいと将来まで見据えたものの考え方はしない。最近は歳をとってきたからますますどうでもいいやと今だけ充実させる生き方になってきました。


老人に足を突っ込む年になってからは、他人にどう思われてもそんなに気にもしなくなってきました。嫌われるのは確かに困るが、人間関係の構築というものを順序立ててやってきた経験がないものだから、これもなんとなく話があう人と他愛もない会話をするのみです。