「ハンニバル」(ドラマ)を観た。 | 井蛙之見(せいあのけん)

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毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

先ほど、約2週間、U-N〇XTで「ハンニバル」(ドラマ)全シーズン(合計39話)

の視聴を終えた。(3シーズン、13話X3、2013年~2015年)

このドラマはいつも以上に登場人物の心理描写や内容が驚くほど複雑なために

内容を完全に理解したとは言いがたい。

登場人物のエスプリのきいた会話、説明の様々なレトリックも愉しい。

そのほか芸術をはじめとする趣味にかかわる知識などなかなかに目まぐるしい。

ジェットコースターのように物語が乱高下を繰り返し、内容が入り組み、

裏切り裏切られる人間関係が絡みに絡みまくった。

今まで観てきたどのドラマよりも、人間の思考や嗜好の奇妙さと奥深さを堪能した。

 

これを観る直前に記憶の曖昧な「羊たちの沈黙」を観た。

これはサイコサスペンスの金字塔といえるだろう。

(実は「ハンニバル」「レッドドラゴン」の映画を先に観たのだが

もう一度観てみようかと考えている。)

ハンニバル・レクター博士といえば、アンソニー・ホプキンスさんが絶対的な

印象が強いが、このドラマ版、若き日(とされる)のハンニバル・レクター博士

を演じたマッツ・ミケルセンさんは妖艶な男の色気と知的で冷美ともいえる独特の

雰囲気・エレガンスさを漂わせてハンニバル・レクター像を演じきっている。

私の好きな俳優さんはジェイソン・ステイサムさんとマッツ・ミケルセンさんだが

どちらも「男の色気を醸し出し」「悪役としても異常な存在感」が素晴らしい。

「しわがれ声」と「落ち着いた低音」の声質の違いはあれど共にセクシーである。

 

しかしながら、人間の愛憎というのは実に複雑なものだ。

相手の領域に深く入り込めば入り込むほど、傷つきあう、というのが

自然なのかもしれない。このドラマは特に不可思議な感情に支配される。

「傷つきあわない」ためには「相手に何も求めない」推し活動のようなものがいい。

一方通行で自分の中の妄想で完結している場合は双方向での傷付け合いはない。

そういえば、アニメだの漫画だの実態の存在しないものへの推し活動ならば、

相手は全くこちらの動きなど全く関係がないので、精神衛生上いいのかもしれない。

 

どんな場合においても自分の予測する反応がみられなければストレスがかかる。

「相手に期待する」「相手を信用する」「将来が不安である」など、

自分が行動して変わる可能性があるもの、自分が行動したところでどうにもならないこと

いずれであってもストレスはかかる。これは人間のみに限らない。

自分が直接関わらないことだと、毎日みられるSNSやら書き込みで匿名で発せられる

「無責任な」罵詈雑言は一番安上がりのストレス解消として利用される。

 

それにしても、アメリカのドラマは人体を損傷させ展示するシーンがリアルで

しかも「カニバリズム」「シリアルキラー」「異常性癖」など盛りだくさんの内容で

「肉体破壊」がこれでもかと提供されるとさすがにゲンナリとするところもあったが、

もともと、「精神分析」とか「心理学」(異常心理学)に強い興味・関心があったので

実に面白く最後まで飽きることなく視聴した。

独自の解釈と美意識で肉体の意味とか意思などを考えさせられる。

先日観た映画「正欲」は肉体破壊はなく異常性癖とか心の病、複雑な心情といった繊細さ

を描いていたがこちらは身体・精神ともに激烈な表現で人間の不可思議を描写していた。

こういった作品はいやでも「正常と異常」、「善と悪」とはなんだろう、といったことを

強く考えさせる材料となる。

これは「社会の秩序」とか「権威」などを考えるうえでも実に参考になった。

生きるうえでの手本にはできないが、こういうドラマ・映画をこれからも私は好んで

見続けるだろう。

それにしてもマッツさんカッケーな。

 

「人は考えを口にしない。ただ黙ってあなたの出世を阻む。

 すまん許してくれ。私は何でも言う性質でね」

「ママが言うだろ?私の母親も言った。

 新しいものを食べてみることが大事なのよと」

(ハンニバル・レクター)