「くだらない」は最高の誉め言葉 | 井蛙之見(せいあのけん)

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楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

先日、小泉今日子さんがバラエティ番組にたいして「くだらない」と答えたということが

話題である。

これに対して立川志らく師匠が

「でもね、『くだらないから出演しない』は看過出来ない。

そのくだらない世界に命をかけている人も沢山いる」ということを発信して話題になっている。

そもそも落語や芸能、特に、「お笑い」に関する芸は「くだらない」ことを

いかに面白く演じるか、というのが芸人の話芸であり実力だ。

志村けんさんもマンネリといわれながらも「くだらない」コントをやり続けた。

イギリスの「モンティパイソン」の動きを何度も何度も見ては自分のものにしていった。

かつての無声映画のバスター・キートンなども笑わない演技で「くだらないこと」を

やり続けた。

 

北野武(ビートたけし)さんは自分にとって最高の褒め言葉は「くだらない」

だと言っている。

「週刊漫画サンデー」元編集者の峯島 正行さんは「ナンセンスに賭ける」という本で

読者を笑わせるために作られた作品と位置づけ、人間生活の表裏の機微を辛辣に突いた

ナンセンス漫画が、本来「漫画」である、とした。

 

「くだらない」というのは生きていく上で、必要のないもののように思われるが

料理におけるスパイスのようなもので人生の愉しみを大きく膨らます。

栄養云々ばかりでは味気ない。こうした無駄は人生に彩を添える。気も晴れる。

くだらない「途方もないばかばかしいはなし」は御伽噺であったり空想上の話に

発展して人間の世界に広く浸透してゆく。

落語の元ネタといわれる「醒睡笑」やファンタジーものなども実に「くだらない」

もので「ばかばかしいもの」だ。しかし、素晴らしい想像力の産物だ。

小泉今日子さんが何を意図して「くだらない」という表現を選んだのかは不明だが

少なくとも藝(能)や「お笑い」を追求する人たちにとっては自分の仕事、ひいては、

存在理由を否定されるのだから看過できない、というのは理解できる。

 

ファクト(事実)ばかりに価値があるわけではない。

立川志らく師匠の批判をしている「芸人もどき」のコメントを読んでいると

「くだらない」ことがわからない奴は揃ってその言動全てが「つまらない」。

(この「くだらない」ことに対する見方は芸人ならばわかると信じたい。

シロウトなら仕方がないが、私は「毎度ばかばかしい」ということを決して言わなかった

笑点の司会や人情噺で有名な 五代目三遊亭円楽師匠だって、「くだらなさ」の価値は

重々承知だったはず)

最近のバラエティについていえば「くだらなさ」の追求がなくなり

ありきたりな「つまらない」演出のものばかりが増えた。

単純に出ているタレントの力不足もあるのだろうが、規制がひどすぎて

「表現する自由」が失われてきている。

 

バラエティ番組で名を馳せた上島竜平さんの得意な「くだらない」「ナンセンス」な

芸は残念ながらテレビでは段々やれなくなっていった。

あれほどいきいきとしていた「くだらないこと」がテレビで求められなくなった。

この分野の大家・志村けんさんを失い、めまぐるしくかわってゆく環境の中で

彼の不安と寂寥感と絶望感はどれほどのものだっただろう。

どんなものであれ命がけで演じてきた「自分が活躍できる場所」を否定され、

奪われていくことがどれだけつらいものなのか、何事も死に物狂いでやったことのない

ものにはとうてい理解できない世界だ。絶望は人の命さえ奪う。

 

かつての「お笑い」の大家たち、由利徹さん、早野凡平さん、クレイジーキャッツ、

ドリフターズ、先日亡くなった坂田利夫師匠などがみせてくれた芸の数々は

実に「くだらない」「ばかばかしい」ナンセンス芸が隆盛を極めた。

こういった人たちが活躍した時代は、「明るい時代」だった。

それが今は、ラサールなんとかとか、ウーマンなんとかとか、善人面した

芸も人間性も「つまらない」、M日新聞などにク〇のようなコラムを書かせてもらっている

芸人崩ればかりがマスコミとりあげられるようになったのは嘆かわしいばかりだ。

 

こうしたものは「くだらない」のではなく「つまらない」のだ。

「くだらない」と「つまらない」とは芸にとっては、真逆の価値だ。

 

また、「くだらないもの」を無邪気に笑える時代が来ればいいのだが、

どうして、こうも暗いところばかりを見ようとするのか。

まったく理解に苦しむ。

 

 

アダムとイブが待ち合わせをしたときに、アダムが時間に遅れてきた。

イブは訝しく思いアダムの肋骨の本数を数えた。

(実に、くだらない話だが、予備知識がないと面白さはわからない。

こういった二次創作のようなものは昔から存在し、落語のサゲは代表的なもの)