テレビのリモコンを適当に押していたら「ウエスト・サイド物語」をやっていた。
リメイクではなくて昔の方だ。トニーとマリアがダンスホールで出会うシーンからだが、
つい最期まで観てしまった。
色々とうろ覚えのシーンとか設定があったが、あれって「ポーランド系アメリカ人」と
「プエルトリコ系アメリカ人」というどちらも移民の人たちのなわばり争いなのね、
ということを知る。同じアメリカ人でもアイルランド系とかなんとかいろいろあり、
それぞれアレヤコレヤややこしい問題があるらしい。
このあたりは人種差別とか訛りなどが歌詞やら歌やらに反映されている。
冒頭のそれこそ白眉ともいえるシーンは見逃したがもちろん頭の中には刻まれている。
男のダンスシーンはかつてはフレッド・アステアやジーン・ケリーの個人技が見事だったが
団体による(しかも同じ動きばかりでない)冒頭のシーンでの外のロケでのダイナミック、
かつ、美しいダンスシーンには惚れ惚れする。昨日は見逃したけど・・・。
「こういうシーンあったっけ・・」も含めて、どれも見事なダンスシーンばかり。
私は「もちろん」ダンスに関してもド素人だが、どれもこれも、これ以上はないのでは
ないか、と思えるところばかりだ。音楽は、もちろん最上級に素晴らしい。
個人的には「アメリカ」と「アイ・フィール・プリティ」が訛りも含めて好きなダンスシーン。
ナタリー・ウッドの歌は「王様と私」のアンナ(デボラ・カー)とか「マイ・フェア・レディ」のイライザ(オードリー・ヘップバーン)の歌の吹き替え(?)のマーク・ニクソンだが
実にこれもいい。
「いつまでも古いものに・・・」などという声も聞こえそうだが
今のようにスマホに頼り切り「今ここでの浅い知識にしかならない」検索よりも、
これを契機にじっくりとそのジャンルなり作品の歴史的な位置づけも含めて広げて
取り組んだ方がなにかと面白いのではないかと思うのだが。
(「時間がない」などという声も聞こえそうだが、そういった人よりも仕事の実績が優れて、
睡眠時間も十分にとっている人の方が読書の時間などを作り出し取り組んでいる。
こうしてただの情報処理だけから自分のものへと血肉化していく過程が生まれるのだろうけど
「やらないための」できない言い訳ばかりしてる人というのは、せっかく脳と大事な時間を
使っているのに、そういう意味では実に人生を損しているように思うのだが・・・・・。
まぁ、いいか。)
映画など、細かいところをみれば実に驚くほど時代背景など情報と意味が詰まっている。
昨日はそういう意味では「いろんな情報や知識や意味」を堪能した。
全編で152分と決して短い映画ではないがそれでも話の展開が早く感じられたくらいだ。
これは、わずか3日間くらいの出来事なのだ。
現代版「ロミオとジュリエット」と呼ばれる「ウエスト・サイド物語」も、もう発表から
(1957年初演)から66年が経過したけれど「マイノリティへの差別」とか「怨恨による
復讐や対立は何も生まない」、ということが今もって解消することはない。
とはいえ、ド素人でも知る天才振付師ジェローム・ロビンズとマエストロ・レナード・バーンスタインの不滅の藝術には感謝だ。
そのすばらしさは時代や国籍や差別を越える永遠不滅のものであってほしい。