「百姓は生かさず殺さず」~官僚制社会主義の完成~ | 井蛙之見(せいあのけん)

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毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

俳優の佐藤二朗さんが嘆いている。

自分が監督・脚本・主演を務めた映画が海外では色んな賞を獲得し

高評価にもかかわらず全く日本では評価されない。

題材が「売春宿」での話だからか「手のひら返しが得意な日本」なのに

マスコミも映画界も完全無視らしい。

このように日本のマスコミひいてはすべてのものは「誰かにとって」利益にならないもの

は抹殺されることになっている。

その反対が、某国公営放送がよくやる「K国推し」や「ステマ」などその典型で

金儲けのためにはやはり「嘘でもいいから」物語をでっち上げなければならない。

この3年間でマスコミという暴力装置でボクたちが見せられてきたことは

なによりもそのことを雄弁に物語っている。

C国のような独裁国家だけが情報を操作しているわけではない。

 

日本では貧困と称して、富裕層や大企業が諸悪の根源であるかのようにのたまう。

しかし考えてみてほしい。

環境問題で有名なGとか、O県で座り込みをしている人たちはどうやって飯を食っているのか。

これは会社と同じで「誰かにとって」金儲けになるので利用しているに過ぎない。

あなたを雇うのは会社の儲けというより黙って手足となり集金してくれるからに他ならない。

当然、「あなた個人のことなどどうでもいい」

何のためにこの国が「いい大学を出ていい会社に就職すれば一生幸せ」などという夢物語

を作って国民を従わせてきたと思っているのだ。

 

年寄りに対して日本は過剰サービスで大事にしすぎる、というのは実に正鵠を得ている。

国民皆保険制度によって加入者は大体「診察を受けられ」諸外国とは比較にならないほど

安価か、いたれりつくせりの医療サービス・治療が受けられる。

実にありがたいことだ。自己責任で自分の健康管理を続けなければいけないなんて

「他人任せで自分では考えない・行動しない」日本人には荷が重すぎる。

もし、「好き放題生活してきたツケ≒成人病」を払ってくれるような医療サービスが

日本になければどうなっているだろう。だからこそ、個人病院が生きてゆけるのだ。

どれだけ高血圧の薬が有用なのかはわからないが、病院にとってはサブスクのようなものだ。

楽に経営が見込める安定収入がなければやってられない。

 

医療無償の国があるではないか、という意見がありそうだが、そういった国は

そもそも成人病になりやすい食文化が乏しく(選択肢が少ない)日本と同じような

サービスなど受けられず、手術などいつになったら受けられるかわからない。

もちろん冬の患者の7割を占めるであろう個人病院の診察は風邪なんだろうけれど

お近くの薬屋で薬を買ってね、でおしまいである。

もっとも日本でも発熱してたら診察しない病院もあるらしいのでこのあたりは似てきたのか。

風評被害で経営が傾くことを彼らは人命が失われたり、人が困っていたりすることより

畏れる。医療とは人を助けるためにあるのではなく自分だけ(経営)を助けるためにある。

人の為と書いて「偽り」と読む。昔の人はうまく言ったものだ。

日本人の不思議なところは「自分がいま享受できるサービスがデフオルト状態であたりまえ」

だと信じて疑わないことだ。もう信仰といっていい。

これは同時に「自ら考えたり、自衛すること」の放棄を意味する。

「巧言令色鮮し仁」とは昔の人はうまく言ったものだ。

人間の本質なんてどんなに時を経てもそうそう変わらない。

 

マイナンバーとひも付きでしかも日本国内にいる人間を管理できるようになれば

考えない・行動しない国民はますます自ら自由を放棄することになる。

なんといっても「自分で何もやらないでことがすすむ」のだから結構なことだ。

これはまさにE・フロムの描いた「自由からの逃走」そのものだ。

「国家を運営している」官僚にとっては自分たちの利益のためだけに天下りなり定年後の

職場斡旋など実に効率よくでき、マスコミも管理下(手足)なので好き放題できる。

すでに大企業は色んな規制で縛ってあるので政治家さえ押さえてしまえばすべて傀儡として

使える。何とも「誰かにとっては」薔薇色の世界だ。

 

政治家が国を主導できる機会はあったが、あまりにも肝心の国民が自分たちの

「目先の利益」のみに固執し些末なことに拘泥した挙句、見事なまでに世界でも

類例を見ない官僚制社会主義国家がやすやすと出来上がった。

「百姓は生かさず殺さず」という江戸時代の農業政策(日本は8割が農民だったとされる)は

徳川300年の「平和の時代」の代償が国民に「自ら考えること・行動すること」を

放棄させること(あきらめといってもいい)で成立していた。

この大停滞の時代とこの何十年かの日本はある意味状況が酷似しているのかもしれない。

次の時代はどう転ぶのか。また、歴史は繰り返すのだろうか。

 

※2:20秒~