古希の祝宴 5月14日(日) 池田祐司70歳 その6( 事後報告) | 俺はShattered

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50歳を過ぎて、「この調子なら100歳まで」と思っていたら、とんでもない苦境が待っていた。そこをくじけずに、生き延びようとする哀れで滑稽で笑止千万な人生の「後半部分」を再構成する決定的で虚無的なアメブロ。

(前回より続き)

 昨日、NHKの「映像の世紀・バタフライエフェクト」という番組を見た。「ビートルズの革命 赤の時代 『のっぽのサリー』が起こした奇跡」と言うサブタイトルで、内容はビートルズの起源から始まり、絶頂期までをわずか45分にまとめ上げた内容である。世界中から集めたアーカイヴ映像を駆使して、音楽的な側面よりも社会現象的な側面に重心を置いた秀逸な内容であった。(青の時代と言う後編が6/19に放送予定)

 今年、いみじくも古希を迎えて、自分の過去に眼を向けて、これまで聞いてきた音楽を振り返っているところに、ドンピシャの番組だった。言うまでもなく前回書いたように「石原裕次郎からローリング・ストーンズへ」の道程のまん中にビートルズがでんと座っているのは、間違いないことである。私的な「1960年代」つまり、僕の個人史においては「7歳から17歳」の10年間は、重要な時期でもあった。幼児から少年へ、そして思春期である。それはやがて人生の根幹を形成する重要な時期でもあったのだが、当時はそれを自覚する事はなかった。

 当然の事ながら、7歳の時にビートルズを聞いたわけではない。まだビートルズはデビュー前。小学生の頃は石原裕次郎や三橋美智也、美空ひばりなどの邦楽演歌がラジオから流れるのを漫然と聞き流していた。と言うよりもむしろ小学生の時には音楽や流行歌というもの自体を正しく認識していなかったと言っていい。それは我が家の音楽を聞くハードウェアや環境が、貧弱だったこともあるだろう。不思議なのは、そうであったのに、今でも石原裕次郎や美空ひばりの歌を記憶しているのは、どういう事だろうと訝しく思う。

 

 ビートルズを明確に意識したのは父親の発言であったことを記憶している。中学生になった私に父はある日突然言った。「お前、まさかビートルズなんて聴いていないだろうな!」。正確に書くと、父は「ビート・ルーズ」と発音した。そして、その時に僕はビートルズそのものを知らなかった。それで父が何を言っているのか、全然わからなかった。父の仕事は、出張が多かった。その旅行の途中で「週刊文春」を愛読していた。テレビ台の下の古新聞を置くスペースに山のように「週刊文春」が置いてあった。おそらくその週刊誌の記事に、ネガティヴなビートルズの記事が掲載されていたのだろう。例えば「ビートルズ旋風、世界を席巻、青少年に有害な音楽」とかなんとか。我が父は、我が子を思い、有害な音楽に近づかないようにと忠告してきたのだった。

 ところが、偏屈ものであり、親父に対する反抗心が芽生えていた僕は、それがどんな風に悪いものなのか、知りたくなってきたのだった。むしろ父が余計な忠告をしなければ、なんの関心も持たなかったかもしれない。いや、そうではない。リヴァプールの若者四人の発する強力な電磁波は、同時に急激に発達していたあらゆるメディアに乗って、世界中にばら撒かれていた。ビートルズは音楽だけではなかった。ファッションやスタイル、髪型から考え方まで影響を及ぼしていたのだった。

 僕の場合は、父親の余計な忠告の壁によって、数年は「ビートルズの毒」から保護監禁状態にあったようなものだった。しかし、それもやがて無駄に終わった。つまり、学校の友人たちの中に、強烈な音楽マニアが発生していて、そ奴らは音楽を楽しみ、服装を楽しみ、密かにおしゃれをして、女の子たちにモテた。図書局員になり、萩原朔太郎やボードレールを読んでる場合じゃなかったが、暫くはその場所を堅持し、そこに止まった。それはなぜか自分が二重人格者のような気分になった。

 

(続く)

 

 

デビュー仕立のストーンズの魅力を知るのは、ずっと後になってからだった。

 

 

音楽的なオリジナリティを獲得してゆく第一期ストーンズ。

 

ビートルズとストーンズはとても仲良しだった。しかし、当時のファンはなぜか反目しあっていた。ビートルズ派、ストーンズ派と言うふうに党派性が存在した。今では馬鹿げた風潮だと思う。

 

デビューする時に、アンドリューはビートルズの真似をしてストーンズにお揃いのスーツを用意し着用させたが、ストーンズはすぐに脱いだ。

 

キースとブライアン