芸術は無駄なもの? | むーのブログ

むーのブログ

ブログの説明を入力します。

 ピアニスト、といえばすぐに思い浮かべる友人がいる。

 彼女は主婦と子育てと仕事をしながら、定期的に毎月無料のピアノコンサートを開いている。ただし旦那さんにはあまりいい顔をされていないそうである。非生産的で、無駄なことをしているようにとられているからである。

 無駄なこととは何だろうか。お金にならない、得にならないことだろうか。しかし芸術を経済的な観念や損得勘定で見るのはいかにも味気ない。その旦那さんは友達がいないので誰とも会わず、仕事が終わると真っすぐ帰宅してくるので一切無駄遣いはしないそうである。それだけ節約すればたしかにお金の心配をしないで済むだろう。しかし、お金の心配がなくなるからといってそれだけで幸せを実感できるのだろうか。他に何も楽しみがないのはいかにも寂しい。

 芸術は一見無駄なことのように見える。必ずしも生活になくてはならないものではない。生きていく上で最低でも食べられたり、寝られれば事足りるだろう。けれども二万年前にはすでに人類は洞窟の壁に絵を描いていた。レプリカを観に行ったことがあるが、とても躍動感あふれる、見ていてワクワクする絵だ。縄文時代の土器の紋様などはどれも素晴らしいものである。土器は食べ物さえ盛れればいいのに、なぜそんな無駄なことをしていたのだろうか。中にはあまり実用的とはいえないものもある。「ちゃんと役に立つものはアートとは違う。この世にまだないもの、それはだいたい無駄なものなんですけど、それを作るのがアート」という人がいた。

 音楽は同じ演奏者、同じ曲を聴いても演奏する人のメンタル、また聴く人の気分によって以前と違う音として心に響くことがある。一瞬一瞬が二度とない時間、その場でしか聞けない音であり、それがライブの醍醐味でもある。私が友人のコンサートに足を運ぶのはその時でしか聴けない音を感じたいからである。また絵画は描く人の心眼で見た光景をキャンパスに描く。そしてその絵を見た人は自分なりにストーリーを描く。音楽も絵も公開されたらもはや作った人のものではなく、聴く人見る人が芸術品に何かを感じて初めてその作品は完成されたものといえるだろう。

 「作品は自分と世界との接点ですし、自分の分身でもある」という人がいる。そこにアートとは何かのヒントが隠されている気がする。