私たちは今も霊的存在 | イエスとスピリチュアリズムと地上の兵士(わたし)

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苦しみや悲しみが不幸ではありません。霊的真理を知らずにいることが最大の不幸です。
間違いや失敗で願いが叶わない人生が残念な人生ではありません。霊的成長せすに終わる人生が最も価値のない人生です。
真の幸福のために、ともに学びましょう。

大勢の人が真の実在でありすべての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。」(シルバーバーチの霊訓1 P33/6)
・・・人間は脳によって肉体のすべてを支配している。喜怒哀楽の感情も、誰かに抱く情愛も同様に脳の反応である。だから、死とは脳が機能停止した状態のことであり、脳の機能停止により人間の生命は終わり肉体が腐敗しはじめる。それとともに、生きていた間に脳の反応によって持っていたさまざまな感情や情愛も消滅してしまう。無になる。大勢の人とはそう思う人のことでしょか。


人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。」(シルバーバーチの霊訓1 P33/9)
・・・亡くなった肉親があの世から私たちを見守ってくれている。仏壇やお墓の前で、見守ってくださいと手を合わせ願う。事故やケガまたは闘病の末苦しんで亡くなった人は今もその苦しみが続いているのではと考え不憫に思う。
うっすらと死んだ人の霊的存在を認めてはいるが霊的な知識はほとんどなく、死んだ人と自分は全く違う存在で、自分のいるこの世が活動的な実在であり、あの世は影のような非活動的な薄ぼんやりした世界。
自分もいつかは必ず行く世界であることをすっかり忘れていて他人事のように死後の世界を思う人のことでしょうか。


人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということはあり得ないのです。物的なものには、その役割というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理の中で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。」(シルバーバーチの霊訓10 P20)

死んだ人たちは今も生きています。私たちとの違いは、肉体があるかないかの違いだけです。
私たちに見えないのは、物質として存在しているものしか認識できない五感に頼って私たちが生きているからです。
文明が発達し便利になり過去の不便な暮らしと比較して現代が幸せと思いがちですが、そうでしょうか。今の科学や文明がそれほど素晴らしいものでしょうか。
現代の環境破壊や患部を切除する以外に方法のない病気の治療法(外科手術)などは、100年後、1,000年後に何て野蛮なのことだろうと言われているかもしれません。
人間の五感だけで理解できることは、果たしてどのくらいのものでしょうか。
私たち人間が手にしていない知識がまだまだ存在しているのです。

万能ではない五感、錯覚や誤作動を起こす脳、年齢を重ね鈍重になっていく身体。
死んだ人たちは、そんな不便な肉体から抜け出て霊として生きています。
また、今地上で生きている私たちは肉体だけで存在しているのではありません。
肉体をまとった霊なのです。肉体に閉じ込められている霊なのです。
物質世界のため、肉体を通してしか自我を表現できないのです。
死んだ人だけが霊的存在なのではありません。
私たちは生きている今も霊的存在なのです。


そもそも人間は死んでから霊になるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。」(シルバーバーチの霊訓10 P21)

死ぬということは、この重い肉体からの解放であり、本来の姿である霊に戻ることです。
死んだ人たちには死後の新たな環境での生活があり、地上での苦しみからは解放されています。
苦しみの中で死んだとしても、今はその苦しみからも解放されています。
死とは、何ものにも束縛されることのない自由を得ることです。

愛する人の死を嘆き悲しむのは、
肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいるからです。」(シルバーバーチの霊訓5 P37/4)
もう二度と会えないと思わないでください。
今はその姿が見えなくても、いつか再会を喜ぶ日がやってきます。
そして、愛する人は今もあなたを見つめています。