仏教と物理学の問題(1) | ゴトーを待ちながら

ゴトーを待ちながら

尽きかけている命の日々に、こぼれていく言葉のいくつか。

私の記憶では、この本の初版が出たのは1904年であり、アインシュタインが特殊相対性理論の論文を書いた時期と重なっている。当時、この論文の意義を理解できた学者は世界中で数人だけだったらしい。量子力学はまだ熟していない。にもかかわらず、ダールケは、当時の物理学の欠陥とこれから進む方向を何度も本書で示唆するという、驚くべき洞察力をみせている。単に瞑想に熟達していただけでなく、それを近代科学や哲学の言葉とつなぎ合わせるという透徹した頭脳を持っていたからこそできた技である。

 

仏教と物理学の問題

ブッダのカンマ(業)の教えを物理学者に説明しようとすると、彼は必ずこう反論して拒絶するだろう。

「時空を超えて直接的に伝達するのは不可能であり、それができるとすればテレキネシス(訳注:念力でものを動かすこと)だ。テレキネシスは信仰の世界にだけ有効である。したがって、仏教も、他の宗教と同様に信仰の宗教である」科学的な素養のある人は、おそらくこのような思考の流れになるであろう。したがって、仏教が知的生活に何らかの役割を果たそうと思うならば、このような反論に答えなければならない。

その答えとは、次のようなものになるだろう。

現実は、いつ、どこで、どのように現れようとも、本質的にそこには「動きがある」ということだ。つまり、現実は動作、自分を動かす力を行使することである。しかし、このことは、その動作がどのように発生するようになっているかについては、何も教えてくれない。科学は、現実に対して特定の種類の動作を指定する、いわば固定したレールの上を走らせるといった図々しさを持っているが、これはいったいどこから来るのか?

すべての動作は仲介によって生じ、時間と空間で実証可能でなければならないという科学からの一方的な要求は、科学が自然に対してとっている立場から必然的に導かれたものである。