笑福亭笑瓶ちゃんとの出会いは、1981年、彼が鶴瓶さんに弟子入りしてすぐだった。私はその頃、吉本興業入社二年目で、笑福亭仁鶴さん、桂文珍さん、西川のりお上方よしおさん、太平サブローシローちゃん、京都花月のAPなど担当し、忙しくしていた。

当時は、文珍さんをフォローすることが多く、特に、朝日放送の「The Big!」という番組は、土曜日の深夜生放送だったので、現場のABCホールへ行くことが多かった。板東英二さんが司会で、文珍さん鶴瓶さんがアシスタント。視聴者参加のビンゴゲームで一番最初にビンゴした方に連絡し、放送終了時までにホールに来れば、車がもらえる、という番組だった。(記憶は曖昧)

そこで出会ったのが最初だったと思う。年も一緒で、互いにお笑いが大好きだったので、楽屋で生放送を見ながら、ずっとしゃべっていた。

一番の思い出は、桂楽珍君(当時は中山青年)が文珍さんに弟子入り志望で来ていて、文珍さんから、我々二人に、アドバイスするよう頼まれた。本番中に、中山青年と話をした。徳之島出身で、日本語とは思えないような言語を使う彼に、ふたりがかりで、弟子入りをやめるように説得した。訛りがひどいし、大阪とは文化が異なるので、苦労するのが目に見えていたからだ。

それでも中山君は、意思を通し、入門が許された。今では東西を通じて、落語界で独自の地位を気づくほどになった。われわれの眼鏡違いだった。

それから84年に私が東京事務所に転勤したので、「突然ガバチョ!」などでの活躍は知らなかった。濃い付き合いは、MBSのヤンタン金曜日からだ。笑瓶ちゃん、根本要ちゃんと、私が担当していた野沢直子の三人で、88年1月からスタートした。

ディレクターは、明石家電視台も兼務していた、増谷さん、ベテランの宇野さん、松本務さん、阪大での新人杉浦さんとバラエティ豊かで、今や読売テレビの解説委員高岡君が、アシスタントの学生アルバイトだった。

すぐに三人と構成の水野君、私と仲良くなり、仕事というより、偏差値低めの大学の緩いサークル活動のようなノリで、楽しかった。まだ、千里に毎日放送があった時代だ。毎回放送終わりで、三人と水野君、私で、飲みに行った。

ヤン金バンドを募集し、そのライブの打ち上げで、酔っぱらった私は、リクエストに応え、吉本新喜劇のギャグを披露した。岡八郎さんの「隙があったらかかって来んかい!」や、木村進さんの、立ってるところからジャンプして、椅子に正座するやつとか、今考えれば、若いとはいえよくやったものだ。皆がよく笑ってくれたから調子に乗ってしまった。

90年1月に大阪に転勤になり、私は野沢直子の現場から離れたので、ヤンタンの現場に行くことも無くなった。

それでも、「大阪ほんわかテレビ」などで、時々顔を合わせた。いつも、「おぉ~!野山ちゃん」と笑顔で迎えてくれた。合うとたわいもないバカ話、最近の互いの身近なネタで盛り上がった。

最後に会ったのは、笑福亭松之助師匠のお別れ会だった。ゴルフ場で倒れてから初めてだったので、彼の体調を気にかけて、普段と違い、ちょっと真面目な話をした。今となってはそれが最後になってしまった。もっと、いつもの様にアホ話をしておけばよかった。

年齢が一緒で、芸能界でのキャリアもほぼ同じ。芸能界での数少ない友人と呼べる一人だった。その彼、笑福亭笑瓶が逝ってしまった。残念至極とはこのことだ。

また、折に触れて、彼のことは書いていきたい。

笑福亭笑瓶君、ほんとうにありがとう。天国で楽しく過ごしてください。さようなら。