今朝福岡のシンガーソングライター野田かつひこ君から、DMが届いた。
寿一実君が亡くなったと。福岡支社のスタッフに確認すると、3日前に癌で、ということだった。
彼と初めて会ったのは、私が吉本興業に新入社員として入った、1980年だった。研修でなんば花月に配属され、楽屋に挨拶に行った時だったと思う。岡八郎さん、木村進さんがいたと記憶している。それより印象に残ったのが、お茶子(楽屋の世話係)のおくろさんだった。細面で細身、いつも怒ったような表情だった。中川一美君(当時)も新喜劇に出ていたと思う。あるいは梅田花月だったか?
当時の中川君は、中堅で、すでに禿げていた。カツラをかぶって出てきて、騒動の最中にカツラが脱げて、暗転、という役柄が多かった。芝居はオーソドックスで、間がよく、ツッコミも正確だった。出会えば挨拶を交わす程度で、特に親しいというわけでもなかった。そのうち研修期間が終わり、私は、制作部のマネジメントと京都花月のアシスタントプロデューサーとして働き始めた。
時はマンザイブームの前兆期で、仁鶴さん文珍さん以外に、のりおよしおさんも担当していたので、結構忙しかった。仁鶴さんは、週二回東京へ通っていた。当然私も同行した。それ以外に忙しくなり始めていた文珍さんの現場や、毎週日曜日夜には、京都花月に入り、月曜日の初日を迎えていた。その合間に、のりおよしおさんの東京行き(「笑ってる場合ですよ」)にも同行したりと、かなりハードだったと思うが、現場にいるのが楽しかったので、苦にはならなかった。
あっという間に4年が過ぎ、1984年9月に東京事務所への転勤が決まった。
それからの6年間は、木村所長の元、現場が3名、事務所スタッフ1名で、東京へ来るタレントをほぼカバーしていた。三枝さんとやすきよさんだけ、大阪からMGが同行したが、ほかの芸人さんは東京駅や羽田空港で、我々が受けた。慣れている仕事に関しては、直接局へ直入りしていただいた。東京での生活は充実したものだったが、それはまた、別の機会に。
200年1月に大阪本社へ戻ることになり、しばらく、大阪での現場を回っていた。ある時に、先に大阪に帰っていた木村さんに、梅田花月の新喜劇を見てくるように指示を受けた。当時、吉本新喜劇やめよっかな?キャンペーンの真っただ中だった。
当時の新喜劇は、すでにベテランはいなくなり、若手中心に動いていた。梅田花月では、見たことのない若手が、盛んにフラッシュを浴びていた。板尾創路君だった。ただ、新喜劇は芝居として楽しめるものでは無かった。若い女性客以外は、完全に引いていたのだ。
次の日、会社に出て、木村さんから感想を求められ、正直に応えたら、「ほな君がやってくれ。」と突然口頭辞令を出された。後で考えたら、こうなることを予測して、木村さんが梅田へ行かせたのだと気づいた。要するに、誰もやりたがらない改革途上の新喜劇に、事情を知らない東京帰りの私があてがわれたのだ。要するに嵌められたのだ。これが、私の長い新喜劇との付き合いの始まりだった。その後、マネジメントや広報などを経て、1997年、福岡事務所への異動が決まった。
そこで久々に、中川一美こと、寿一実君に再会したのだ。
彼は劇場で華丸劇団の中心人物だった。座長の華丸君はじめ座員から頼りにされていた。当時彼は、ワンボックスカーに家財道具を積んで、サウナで寝泊まりしていた。後輩の部屋に転がり込んだり、私の部屋にもたまに泊りに来ていた。
華丸大吉君やその後輩と飲みに行くときには、たいてい中川君もいた。
(つづく)