楠公祭興行の喜楽館昼席へ
まず、23日。トリの銀瓶君は、「井戸の茶碗」を。この話の留意点は、江戸落語と違い、上方では、演じることが少ない侍だ。侍口調を意識するあまり、若侍の高木佐久座衛門まで、おさまりかえって演じてしまい、浪人で壮年の千代田卜斎と変わらない年恰好に見えてしまうことだ。この点、銀瓶君はよく心得ていて、しっかり演じ分けていた。眼目は、「嫁ぐならあのような若者」と、卜斎が娘と話していたというところ。今時なので、父親が勝手に娘の結婚相手を決めている、という批判をかわしているのだ。
露の新治さんに習ったという。さすが人権派だと感じさせられた。
25日は、「はてなの茶碗」。桂米朝師の名演があるので、桂系の噺とのイメージがあるが、最近は流派を越えて、演者のニン(任・人)に合えば、こだわりなくやるようになってきた。六代目松鶴師が、可愛がっていた先代小染にお家芸とも言える「らくだ」を伝授したのは有名な話。六代目は、頑固でわからずや的に思われがちだが、落語や落語家のことは、むしろ繊細に捉えていた。その話は、当代がしっかり受け継いでいる。
さて、銀瓶君のはてなは、オーソドックスに演じられ、好感が持てた。欲を言えば、茶金に今少し貫禄・押し出しが出れば申し分ない。
銀瓶君は相変わらず、勉強家で、きっちり描く。それが彼の真骨頂とも言えるのだが・・・
もう少し、噺を楽しんだり、予定調和的ではなく、破れてもいいのではないだろうか?
ぼちぼち中堅から脱して、ベテランの域に差し掛かるキャリアだ。破れたり、壊れたりする時間はあまり残されてはいないから。