私が1980年に吉本興業に入った頃、関西ではすでに売れっ子タレントで、テレビ・ラジオにレギュラー番組を何本もお持ちだった。
私は、研修後、桂文珍さんの担当になり、隔週土曜日に「花の新婚!カンピューター作戦」の収録でお会いしていた。12時からの「ノックは無用」に続いて、「ノンストップゲーム」という生放送があり、その番組終わりで、二本撮りをしていたのだ。
親しく口を聞くようになったのは、道頓堀中座の中村勘九郎(当時)さんの楽屋でご一緒してからだ。「松竹の楽屋に吉本の社員が来てる。」と、少し驚かれたように話し、そのあとニヤリとされた。私が戸惑ったのを見逃さなかったのだ。
その後も、勘九郎さんの楽屋で何度かお会いした。「君、吉本にしては珍しいな。歌舞伎を見るやなんて。」ともおっしゃられた。
勘九郎さんと言えば、「EXテレビ」を絶賛していたことを思い出す。「野山ちゃん、あれ面白いねぇ。イーエックステレビ。」ご本人は、タイトルを間違って覚えていたので、余計に印象に残っている。勘九郎つながりで言えば、島田紳助さんに、舞台を見てほしいと熱望していた。その事は、本人にも奥さんにも伝えていた。奥さんとは、何度か松竹座で一緒になった。勘九郎歌舞伎のファンだった。その奥さんが、「これは他の歌舞伎と違って、絶対に面白い。退屈しない。」と無理やり連れてきたのが、松竹座での「夏祭浪花鑑」だった。だけど、紳助さんは、奥さんの懸命の引き留めにも関わらす、中入で退席してしまった。奥さんは「これがだめだったら、しょうがない。」と歌舞伎をあきらめた。
話がそれてしまった。上岡さんである。落語はもとより、講談、歌舞伎、文楽と、古典芸能に造詣が深く、講談は、ご自分でもおやりになった。漫画トリオを解散して以来、テレビ・ラジオタレントになった上岡さん。自称ではなく、芸は一流であったが、何か芯になるものを望んでいらっしゃったのかも知れない。根はあくまでお笑い芸人であったのだと思う。
話は戻る。ある時、「カンピューター」の楽屋に弟子のテント(当時)君が来たことがあった。出演者の一人が、テント君を知っていて、あの蜘蛛の戦いを見たい、とおっしゃった。上岡さんは、「ほな見せてあげたら」と軽く声をかけた。テント君は椅子に座り、机の上でおもむろに対決を始めた。何人かが右と左に賭けていたと思う。そのうちにADさんが、まもなく本番ですと呼びに来た。
「僕ら収録があるから、君、見といて、結果教えて。」とスタジオに消えた。私は、言いつけ通り、勝負の行方を見守った。その見守りは、30分ほど続いた。本当にどっちが勝つか、テント君本人にもわからなかった。やっと勝負がつき、右手が勝った。
収録が終わり、上岡さんが興味津々に「どっちが勝った?」と聞かれたので「右です。」と答えた。テント君は、「ちょっと左がバテてしまいました。」と真剣に答えていた。そのテント君は、師匠より早く亡くなってしまった。その時、上岡さんは、ほんとうに悲しそうで、相当ショックを受けておいでだった。なにしろ、二代目として上岡龍太郎の名を譲ろうとしたのだから。上岡さんも、まさか断られるとは思っていなかっただろう。
上岡龍太郎さんとの思い出は尽きない。
上岡さん、天国でノックさんや米朝さんと、楽しく語らってください。
ありがとうございました。